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大山エンリコイサム:ストリートアート発祥の地で創作活動を展開

2020/11/16

  • 大山エンリコイサム(おおやまエンリコイサム)

    アーティスト
    塾員(2007環)。2009 年東京芸術大学大学院修了。ニューヨークを拠点に壁画やペインティング作品を発表し注目される。

  • インタビュアー宮橋 裕司(みやはし ひろし)

    慶應義塾志木高等学校教諭

志木高の自由な校風の中で

──大山さんは、慶應志木高校の時から創作活動をされていました。私が強く印象に残っているのは、イタリアに留学されて戻られてからのことです。この留学が大変大きな転機になったように見えましたが。

大山 留学したのは高校2年生の夏頃でしたが、おっしゃる通り、留学の前と後で自分自身も変化を感じています。

イタリアに行く少し前くらいから、ストリートアート、当時はグラフィティと言っていたのですが、それに興味をもちました。そのきっかけは高校の同級生や先輩にスケートボードやブレイクダンス、DJ、バンドをやっている人がいて影響されたからです。自分も何か打ち込めるものがあればと思い、自分だけのものを探していく中で、ストリートアートに惹かれました。

イタリアの留学先は田舎の寮生活だったので、時間がたくさんあったのですね。そこで生活していくこと自体が新しい経験でした。その経験がよいケミストリーとなり、自分の中で、ストリートアートや、表現していくことへの興味、モチベーションがどんどん膨らんでいったのかなと思っています。

その後、日本に戻ってきて、将来の進路を考えるにあたって、自分のすべきことはなんだろうかという感覚が出てきたのだろうと思います。

──留学中や留学前後に、創作活動に目が向くきっかけになった出来事は何かありましたか。

大山 僕が創作に興味をもつようになったのは、志木高という学校全体の自由な校風にたぶん起因していると思います。例えば、志木高のピロティのあたりでスケボーをやっている友達がいたり、スケーターファッションで登校してくる友達がいたり。そういう次元で、インスピレーションがあったのだと思います。自分も何かそういう表現をやりたいなという、環境からの触発が自然なものとしてありました。

一方、志木高に限らず2000年代はじめの日本では、ストリート文化、特にニューヨーク発のものが流行っていました。例えば、「裏原ブーム」と言われるような、アメリカのストリートファッションに影響を受けて日本独自のストリートファッションや文化が出てきて、欧米のストリートアートを特集した雑誌などを読んで興味をそそられていました。そういったサブカルチャーからも当然、影響を受けたように思います。

──収穫祭(志木高の文化祭)で、大きなボードに実際に描くライブパフォーマンスをされた。今なさっていることの片鱗のようなものが当時からあったような気がします。 

大山 収穫祭のことは僕もよく覚えています。振り返れば、まさに今、いろいろなところでやっているライブペインティングに通じることを確かにやっていたなと思います。僕の場合、部活で、学校の外で発表したりする機会もなかったので、自分の活動を人に伝えていく発表の場が文化祭しかなかったのですね。

今、思い出したのですが、9・11が起きた時に、それをテーマにベニヤに絵をかいた記憶があります。片側にブッシュ大統領、反対側にウサマ・ビンラディンの顔をかいて、真ん中にLOVE&PEACEという文字をかいたと思います。当時、自分なりに、9・11という大きな事件にすごく影響を受けて、それを自分がもっている表現のツールであるエアロゾル塗料で表現したのだと思います。

原点の「卒業壁画」

──日本で初の美術館個展「Kairosphere」が昨年、ポーラ美術館で開かれ、そこに、志木高時代に描かれた卒業壁画の記録を出品されましたね。私は大山さんが3年生の時の担任でしたが、あの壁画が20年の時を経て、多くの人に見ていただけたことに感動を覚えました。

大山 あの卒業壁画は、より大きな意味で原点という感じです。最初はダメもとで、高校に何かを残したいと思ったんです。美大でもあるまいし、学校の壁にスプレーで絵をかかせてくれ、というのは通るわけがないと思っていたのですが、聞いてみたところ、宮橋先生に企画書を出すようにと言われた。

初めからダメなものはダメと弾くのではなくて、まず話を聞くからちゃんと考えをまとめて出してみろという。この大人として扱ってもらっている感じがとても嬉しかった。そこできちんとプランを立て、下書きもしっかりかいて、プロポーザルを出してみたら、「OK」をいただいた。「本当にいいの?」という感じだったのですが(笑)。

始めてみると思ったより大変でした。結局卒業までに間に合わなかったんですよね。それで、途中の状態で放置してしまっていたのです。母親に「学校の壁に絵をかけるなんて滅多にないことを許可してもらっているのだから、最後まで仕上げなさい」と言われ、頑張って夏頃にようやく完成させた記憶があります。

──あの作品のタイトルは、まだついていないと思うのですが、もし、タイトルをつけるとしたらどうしますか。

大山 あれは実は、自分がすごく好きなパール・ジャムというアメリカのロックバンドの曲「Elderly Woman Behind the Counter in a Small Town」の歌詞、“Hearts and thoughts they fade, fade away”(「心も思いも消えていく」)という文字をかいたものです。アメリカの田舎の小さな町のカウンター越しに座っている初老のおばあさんというイメージの曲で、古き良き思い出を歌っている曲と僕は解釈していました。

卒業すると、学校での記憶は消えて、風化していくのかもしれないけれど、確実にそこにあったんだ、というようなことを自分なりに表現しようとしたものなので、タイトルを付けるとしたらその歌詞そのものかなという気がします。

あるいは、僕は全部の作品に「#150」というように連続番号を付けているので、原点という意味で、番号にならない番号、「0」とか「X」みたいに呼びたい気もします。

──その後はSFCに進学され、文化人類学者で、現代アメリカ研究の第一人者でもある渡辺靖先生のゼミに入られたのですね。

大山 ストリートアートとかエアロゾル・ライティングというのは、アメリカのニューヨークが発祥ですし、サブカルチャーのコミュニティ共同体に入って、その実態調査のようなことをする側面もありますので、渡辺先生のゼミは自分の関心が上手くフィットするのではないかと思いました。

指導していただくというよりは、僕が勝手に話しているものを渡辺先生が「ふーん」という感じで聞いてくださり、たまに何か鋭いことを言ってくださるという、かなり自由な関係であったと思っています。

慶應義塾志木高等学校壁画(2003)©Shu Nakagawa
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