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野澤 武史:「スポーツを止めるな」でコロナ禍の高校生を応援

2020/10/15

慶應ラグビーへの思い

──小学5年生で、幼稚舎でラグビーを始めた野澤さんにとっての慶應ラグビーとはどういうものですか。

野澤 自分が選手として黒黄のタイガージャージを着て目標に突き進んでいた時期に教えられたのは、やりきることの大切さ、自ら考えて行動することの大切さですね。

僕は学生の時はほぼすべてが上手くいって、大学4年の時に優勝できなかったこと以外は、すべて成功している。日本代表にもなれたし、大学2年の時には大学選手権で優勝できた。高校も花園ベスト8まで行った。普通部の時も東日本一になっているし、自分たちが目標を定めて、そこに全力でぶつかるといいことがあるんだという、自己達成感を得た日々でした。

ところが慶應で高校、大学の指導者になってからは結果を残せなくて、相当悔しい思いをしたんです。その時に学んだことは、よく言われることですが、慶應の看板というのは、寄り掛かるものではなくて自分が支えるものだということ。その支える力がなかったなとすごく思います。そういう苦い学びをできたのも慶應ラグビーでした。

また、人的ネットワークでいうと、これほど強固な組織はない。今でも相当助けられていて、野村君がスポーツ記者になって、仕事を一緒にやれるのもそうです。蹴球部だけでなくて、慶應全体でも、例えば大正製薬社長の上原茂さんには日本協会でも「スポーツを止めるな」でも大変お世話になっている。慶應の人のつながりを超える組織はないんじゃないですか。

──一方、野澤さんはいつも「慶應右翼」と言いますが、今、野澤さんの周りには、中竹さんなど早稲田の素敵な人たちがたくさんいますよね。

野澤 ラグビー関係はやはり早稲田が日本のベースにいるんですね。リソースコーチの今のボスは中竹さんであり、J SPORTSのお仕事をいただいている大谷寛さんも早稲田だし、今、1年間で一番一緒に酒を飲む大田尾竜彦君も早稲田だし、一緒に解説をした五郎丸歩君も早稲田です。確かに引退してからのほうが早稲田とつながるようになっていますね。

現役当時はライバルだし、悔しい思いもしたけど、大人になってからのつき合いは深いですね。逆に、どこの出身だろうと、「こいつ本気だな」と思える人とはどんどん仲良くなれる。

一番自分を温かく迎えてくれる場所は慶應だと思いますが、そこだけに納まっているのは、逆に独立自尊という意味で言うと違いますよね。

──昨年のワールドカップは素晴らしかったのですが、これから日本のラグビー界、スポーツ界に、どのように野澤さん自身は貢献していきたいと思っていますか。

野澤 日本協会としては2050年までにもう一度ワールドカップを日本に呼んで、世界一になるという中期目標を立てているので、それに貢献していければと思います。今、自分がやっている領域がユースのタレント発掘なので、そこからラグビー界にポジティブな影響を与えていきたい。

僕は仕組みを作って物事を解決するのが大好きなんです。この一般社団法人も、これを使って人が輝けるようにしたい。そのために、いつも先頭で走っている人間になりたいですね。フランカーだったから突っ走るのは得意ですが、しんがりで、戦況を見極めていくのは苦手なので(笑)。

「ラグビーを止めるな」だってやる前は誰も動画を上げてくれなかったらどうしよう、と思っていたけれど行動しました。そこの突破力がやはり僕の人生のキーワードだと思う。トップランナーでいて、一番怒られて、こいつは危険人物だと思われたい(笑)。

──現場にいる人の課題意識は、一番強いですからね。

野澤 そうです。いつも「ドサ戦略」と言っているんだけど、ドサ回りをすることは絶対条件だと思うんです。それをやらないで、室内で物事を決めているだけの人は、世の中を変えられないと思う。まず現場に行く。でも、戦略を持ってドサ回りをしようと。

土壇場で気づいた「努力」の価値

──家業の山川出版のこともお伺いしたいのですが。少し心配になるのが、これだけラグビーにのめり込んで、代表取締役の仕事をこなすのはとても難しいのではないかと……。

野澤 家庭と本業とラグビーのバランスはきれいに33%である必要はないと思っていて、結局、人生死ぬ瞬間に、バランスが取れていればいいかなと思うんですね。

もちろん、山川出版社の仕事にも仲間にも誇りを持っています。企業ですから当然利益を出していかなければならない。ただ、もう少し広い視野で公教育に対して何か影響を与え、価値を生み出していくには、自分の今の力や人的ネットワークだけだと、力不足かなと感じています。

今、41歳ですが、スポーツ界では一番いい年齢ではないですか。なので、この場所で貢献することも並行して挑戦していきたい。公教育に価値を出せるようになることと、僕の人生で先行しているスポーツ界で勝負することは相反さないと考えます。人的ネットワークや苦労を積み重ねていくことで、ゆくゆくは一つのストーリーにつながっていくのかなと思っています。

──最終的に人生のいろいろな経験がつながっていくと。

野澤 そうですね。僕は21歳を境に32歳まで、まったく勝てなかったんです。それまでは思った通りの人生で、20歳で大学選手権に優勝して、21歳で日本代表になって、どこまで自分は行くんだろうと思っていた。

でも、そうはいかなくて、神戸製鋼では29歳までほとんど試合に出られなかった。その後も慶應で4年間コーチをしたけど負け続けて、最後は教え子から不信任案を出されてクビになった。にっちもさっちもいかなくなった時に、そこでグロービス大学院でMBAのコースに行くわけです。

そのとき、初めて自分で物事をやろうとしたんですね。それまで慶應は小学校から親が入れてくれたし、神戸製鋼だって来てくださいと言われて行った。それが初めて自分からMBAに志願書を出したんです。

そして、上位5%の成績優秀者に絶対になると目標を定めて、本当に最後に取りました。その時に、この10年間の苦境は、努力が足りなかったんだということに気づきました。やればできるなって(笑)。やはり、反復するということの大切さですね。これは母から教えてもらった一番大事なことですが、凡人に生まれたら反復しろと。腹筋500回やったり、僕はそういうことで自信をつけていくタイプなんですね。結論は努力でした。

──そこでまた努力の大切さに気づけるというのはなかなかできません。いつまでも皆が憧れる先輩でいてください。今日は有り難うございました。

(2020年8月7日、オンラインにて収録)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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