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福井 直昭:武蔵野音楽大学学長に就任して

2020/08/19

  • 福井 直昭(ふくい なおあき)

    武蔵野音楽大学学長

    塾員(1993 経)。ピアニスト。1995 年武蔵野音楽大学大学院修士課程器楽専攻修了。武蔵野音楽大学副学長を経て、本年4 月学長に就任。

  • インタビュアー大島 誠一(おおしま せいいち)

    慶應義塾名誉教諭、元幼稚舎長

長く思い描いていた学長就任

──今年の4月に、お父様の直敬(なおたか)氏の跡を継がれ、武蔵野音楽大学の学長にご就任されたこと、おめでとうございます。
思いもよらぬ新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言下での就任でしたが、どのように感じられていますか。

福井 有り難うございます。大島先生もご存じのとおり、40年前の幼稚舎生の時から、学長に就任することは常に意識してピアノを弾き続け、毎日を生きてきたので、ついにこの時が来たんだなと感じています。

しかし、まさかこのような未曾有の状況下での就任になるとは想像すらしませんでした。もちろん人間なので、巡り合わせが悪いなという気持ちがないわけではありませんが、難しい舵取りを迫られるのも運命と捉え、大学運営に全力を尽くす所存です。

音楽大学の授業の多くは、座学ではありません。オンラインによる授業では、やはり「生の音」を扱う科目が多い以上、難しい部分があります。緊急事態宣言解除を受け、現在では個人レッスンを対面式に切り替えています。また、音大生は楽器や住環境によっては、大学で練習もしたいわけですね。今後も世の中や学内の状況をウォッチしながら、慎重に、段階的に、活動制限を緩和していきたいと思っています。

「〈和〉のこころ」と「独立自尊」

──就任に当たって、読みが同じ名前の創立者、曾祖父の直秋(なおあき)氏への思いを聞かせていただけますか。

福井 私が生まれた時は、すでに曾祖父は亡くなっていましたが、もちろん物心が付いた時から名前をもらったことを聞かされていました。また、当時芸大の学長を務めていた祖父は、年間15回くらい野球観戦に連れていくほど私を可愛がってくれ、「これは孫のナオアキ。自分の父と同じ名前だから変な気分なんだよ」と言って、いつも会う人に私を紹介していました(笑)。

曾祖父はもともと富山のお寺の子だったんです。それが、西洋音楽がほとんど浸透していない明治の初期に音楽家を志し、作曲家・教育者として日本に音楽の礎を築きました。その後、昭和4年に武蔵野音楽学校を創り、昭和24年、日本で最初の音楽大学として認可を受けました。もし曾祖父が音楽家を志さなかったら、私は今頃お寺のお坊さんだったかもですね(笑)。

──戦前、外国や東京音楽学校などで学んだ人たちが中心となって、曾祖父様に新しい音楽学校の創立を求めたのが、武蔵野の原点ですね。

福井 「〈和〉のこころ」というのが建学の精神です。創立者の福井直秋に学校を創ることを望んだ生徒たち、その教育理念に共鳴した教職員、善意で支援をしてくれた多くの協力者の方々、そして創立者、この4者の「和」で武蔵野ができた。皆、私心を捨てて心を1つにした結果、当時不可能と言われた私立の音楽学校が生まれたわけです。そのような「和」、音楽でいう「ハーモニー」を形成することのできた曾祖父は、相当な強い心と人を惹きつける人格を備えていたのではないかと思います。

その後も戦時中の大困難をはじめ、相当な苦労を乗り越えてきたと聞きますが、このコロナの時代、変化が求められる時代にこそ、原点の再確認が必要だと感じています。

学長就任挨拶文における「〈和〉のこころ」の説明は、その言葉自体は直接使用してはいないものの、慶應義塾の「独立自尊」を意識したものとなっています。協調と同調は違う、和の精神は「個々人の自立」と表裏一体となって捉えられるべきで、自身の考えをしっかり持つことが大切だと説きました。福澤先生の唱えた独立自尊も、他人の尊厳を守る、つまり和があってこその理念だと、私は慶應で学びました。

昨今、大学は建学の精神を大事にしろとよく言われますが、実際に学内にそれが息づくことは難しい。でも、福澤先生の精神が慶應義塾に今も脈々と受け継がれているように、武蔵野にも「〈和〉のこころ」がしっかり根付いています。だからこそ未来に向け、創立者の心を教職員や学生に、信念をもって伝え続けていかなければと思います。そして、それは自分にはできるのではないかと自負している部分です。

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