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秀島 史香:ラジオにこだわり続けて文化庁芸術祭賞を受賞

2020/06/15

  • 秀島 史香(ひでしま ふみか)

    ラジオDJ、ナレーター
    塾員(1998 政)。大学在学中にラジオDJ としてデビュー。ラジオ局のDJ を中心に、テレビ、映画、CMのナレーター等、幅広い分野で活躍。

  • インタビュアー菅谷  実(すがや みのる)

    慶應義塾大学名誉教授

「朗読」+「ロック」という試み

──秀島さんは『文豪ROCK!~眠らせない読み聴かせ 宮沢賢治編』という番組の朗読で、令和元年度の第74回文化庁芸術祭において放送個人賞を受賞されました。おめでとうございます。

秀島 ありがとうございます。これは昨年ニッポン放送で放送された朗読番組です。宮沢賢治の『注文の多い料理店』と『よだかの星』を1時間の番組で私が朗読したもので、「眠らせない読み聴かせ」というちょっと変わったコンセプトなんですね。

大人になると、読み聴かせをしてもらう機会はなくなってしまいますが、ラジオというメディアの特性には、見えないからこそ、聴く人本人が自分の頭の中で想像を膨らませる楽しさがあります。さらに、ただ読むだけではなくて、そこにロックミュージックを融合させてみたら、どんな面白い化学反応が起こるのだろう、というのが今回の試みなんですね。

──面白そうですね。

秀島 賞をいただき、朗読を評価していただいたことは本当に嬉しかったです。ただ、個人賞という名前は付いていますが、私としては、チームでいただいた賞だと思っています。制作スタッフ、関係各所の皆さま、そして、そもそもラジオを聴いてくださるリスナーの皆さま抜きでは番組は成立しないわけで、ただただ感謝です。

──「宮沢賢治作品とロックの融合」から、どのようなものが生み出されたと感じられますか。

秀島 ロックミュージックは本来メッセージ性が強いものなんですよね。例えばジョン・レノンにしてもU2にしても、何か社会を変えたいという思いがあります。そういったスタンスや作品に込めた思いは宮沢賢治に重なるのではと思いました。

賢治も、形としては童話だったり、子供向けの作品が多いですが、年齢を重ねてこそ響くものもあると思います。例えば『注文の多い料理店』では、人間の身勝手さや、自然に対する横暴さが描かれています。物語は、猟にやってきた2人の男たちの「なんでも構わないから早くタンタアーンと、やってみたいもんだなあ」という会話から始まっていくわけですが、そこから立場が逆転して、最終的に自分たちが食べられてしまうのかもしれないという恐怖におびえる構図になっています。

人間に対して、自然への敬意を忘れず、謙虚になったほうが良いのでは、調子に乗ってるんじゃないよ、という警鐘。今の時代だからこそ、より深く刺さってくるものがあると思うのです。

──なるほど。私は秀島さんの静かな朗読と、ロックのすさまじいパワーとの一体感に、不思議な感覚にとらわれて聴いていました。

秀島 演出家の大村博史さんという、以前から朗読番組を一緒につくってきた方が素晴らしくて。収録では「まず、自由にやってみてください」とのびのび演出してくださり、その後から、ロックの曲を融合させていきました。

楽しい試行錯誤の連続でしたね。例えば、1つのセリフを読むにも、「意地悪さを5割増し」とか、逆に「もう少しフラットに読んでみようか」と試してみては、「これだ!」と盛り上がったり、「違ったね」と戻したり。私1人だけではなく、現場でのたくさんのやり取りで探り合いながら、ピースをはめ込んでいったような作業でした。

アメリカで憧れたDJ

──秀島さんは大学入学前にアメリカでの生活を経験されていますが、ラジオとの出会いはいつ頃になるのでしょうか。

秀島 父の仕事の関係で小学校6年生の時に家族でアメリカに引っ越しました。そこで初めて自分の部屋をもらい、当初、英語がまったくわからないので、英語のスピードに耳を慣らしたいと、自分の部屋でラジオを付けるようになったのです。それが私とラジオの初めての出会いでした。

特に夜、1人で部屋でさみしくなって、「明日も学校だ。英語もわからない。宿題もいっぱいで、まだ全然終わっていない」と眠れない時にラジオを付けていました。

その時は、自分がラジオDJになるとは夢にも思っていませんでした。ただ、さみしい時に、「人の声ってこんなに温かいんだな」と感じたんですね。その時に感じた温かさのようなものが、今まで私がラジオの仕事を続けてこられた原体験なのかと思います。

──日本に比べて、アメリカのラジオ局数は比べようがないほど多いですね。今でも思い出に残っているラジオ番組はありますか。

秀島 今はなくなってしまいましたが、ジャズを専門にかけているWQCDというラジオ局があり、その局の夜の番組を担当していたDJのマリアさんという女性にとても憧れていました。素晴らしく深みのある声をされていて。最初は英語が聴き取れなかったのですが、徐々に耳が慣れて、「Sunny,partly cloudy」とか、「Yankees won.」とか段々とわかってくるようになりました。

すぐ耳元で聴こえてくる人の声というものが、顔は見たことはなくても、安心感や慰めを与えてくれる存在だったんですね。当時はまだインターネットもSNSもなく、1人で部屋にいて誰ともつながっていなくとも、「ラジオだけは別だ」と感じられたんです。生放送で聴こえてくる声が、場所は違えど、今この同じ時間に生身の人がそこにいて、同じ時間を共有していると感じられ、心がホッとしました。

──マリアさんのDJの番組が秀島さんの進む方向にも大きな影響を与えたということでしょうか。

秀島 そうですね。曲がジャズということもあって、とても都会的でおしゃれなラジオ局でした。大人な女性への憧れもあって、いつか自分もこんな雰囲気の人になりたいな、と思っていましたね。ただ、1リスナーとして聴いていただけで、自分がラジオをやりたいというわけではまったくなかったのです。

──秀島さんはその後、慶應のニューヨーク学院に入られますね。

秀島 父の任期が終わり、日本に帰る際、私だけ高校進学のタイミングで、ちょうどニューヨーク学院が開校したんですね。そこで家族は先に帰国して、私は寮があるニューヨーク学院に入りました。

毎日が楽しかったです。2期生だったこともあって、「これから自分たちで学校をつくっていこう!」というワクワクした空気が先生方にも生徒にもありましたね。世界中のありとあらゆるところから生徒が集まっていました。フランス、アブダビ(UAE)、ブラジル育ちの子もいたり。それぞれ個性がとても強くて、たくさんの刺激を受けました。

たぶん一生のうちで一番勉強したのが、ニューヨーク学院時代だったと思います。厳しかったですよ。ニューヨーク州の高校の卒業資格も同時に得ることができ、かつ日本の高校卒業資格もとれるカリキュラムでしたので、テスト期間は熱を出すほど勉強しました。知恵熱だったかもしれませんが(笑)。

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