三田評論ONLINE

【話題の人】
小林亜星:テレビの時代を駆け抜けた作曲家

2020/01/15

医学の道に進むけれど

──高校時代は、医学部進学のために勉強も一生懸命されたのですか。

小林 勉強が大嫌いなのに医学部へ行かなければいけない(笑)。高校3年の時だけ勉強して、どうにか医学部(当時は医科コース)に入りました。

ちょうどその頃、朝鮮戦争が始まったんです。そうしたら、進駐軍の慰問のバンドが日本中で足りないわけ。それで、その頃私はビブラフォンをやっていたんですが、楽友会の友達とバンドをつくって進駐軍の慰問に行くようになったんです。

横浜にWAC(Women’s Army Club)というのがありましてね。お客さんが女性の兵隊さんや将校の奥さんのクラブなんですけど、そこの専属か何かになっちゃってね(笑)。当時の初任給が8500円ぐらいの時代に、1回行って演奏すると3000円くらいもらえる。ものすごい稼ぎになったものだから、金に釣られて。

当時、スタンダードナンバーが1001曲入っている、「1001(千一)」という海賊版の楽譜があったんです。それを持たされて、リクエストの多い曲を暗譜しないといけない。将校の奥さんに「これやって」と言われて、できないとは言えないんです。それが、後に作曲をするのにずいぶん助かりましたね。

──そうやって美しいコードも熟知していったわけですね。

小林 アメリカの音楽をいち早く取り入れていました。

テレビの時代が始まった頃、ジャズから入る作曲家はほとんどいなかったんですよ。ジャズの人は、アレンジャーはいっぱいいるんですが、作曲家になったのは中村八大さんぐらいです。テレビの作曲の仕事は大体クラシック系の人がやっていた。私はクラシックをかじったり、ジャズをかじったり、ハワイアンまでかじっているから(笑)。

──幅広かったですね。

小林 幅広いというか、いい加減で恥ずかしいのですけど、何が来ても「ああ、わかった。やれるよ」と。

──現場に強かった。医学部のほうはどうされたんですか。

小林 後にフルート奏者になった峰岸壮一さんも塾高の同級で仲がよく、彼も医科コースに行ったんですが、2人で医者はやめたいと言いに行ったんです。先生に怒られてね。でも、親父には経済学部に移ったのを黙っていた。

医学部は6年ありますからね。来年から信濃町に行くからと、親父が白衣か何か買ってきた時、「実は俺、もう来年卒業なんだよ」と言って(笑)。親父はがっかりしましたね。

作曲家の道へ

──経済学部を卒業されて、一度就職されるんですよね?

小林 でも、好きでも何でもないから会社が面白くない。その時やっと、「人間は好きなことをやるに限る」と思ってね。自分が作曲なんていう仕事で、飯なんか食っていけると思っていませんでしたけど、もうやるしかないと思い、会社を辞めたんですね。

──それで服部正先生のところに行かれるわけですね。

小林 ええ。最初は慶應の先輩だとは知らなかったんですよ。

表参道の先生の家に自作の録音テープを持って訪ねていった。そこで慶應の先輩だと初めてわかったんですが、奥様がうちは音大の生徒さんしか教えていない、と言われる。でもテープを置いてきたら、一週間後に先生から、「是非いらっしゃい」とお手紙をいただいた。嬉しかったですね。それで先生のところへ毎週通うようになった。

私の兄弟子で童謡を多く作曲された若松正司さんも慶應の出身でした。授業料は1回3000円。当時としては結構高いんですね。

──進駐軍のギャラと同じ(笑)。

小林 でも、最初の3回くらい払っただけで、後は全然払っていない(笑)。まったく図々しいというか。

先生の指導というのは、ほとんどは世間話でしたけど、それがまたすごく役に立つんです。

今の人は皆、自分のことを自分でアーティストなんて言っているじゃないですか。でも、それは先生に言わせると、最低なんですね。「自分で自分のことを芸術家なんて、口が腐っても言うんじゃないぞ、お前ら」と、さんざん言われた。

下駄をつくっている職人でも、素晴らしい下駄をつくれば、人は「あの人は芸術家だ」と言ってくれるんだよと。「芸術家っぽい格好なんかするなよ、お前ら」と言われて、だから服部先生門下はみんなきちんとネクタイをして背広を着ている人ばかりです。

──形でなく、中身が大切だと。

小林 そのうちに、先生や兄弟子のお手伝いをさせていただくようになった。ちょうどダークダックスが世の中に知れわたった頃で、ダークのアレンジをよく、若松さんにご紹介いただきましたね。それからNHKの編曲のお仕事、TBSやレコード会社と、編曲が次から次へと増えて。

そして、「音楽の花束」とかアジアの民謡をオーケストラに仕立てるような仕事もやらせていただいているうちに、NHKで結構重宝されるようになったんです。「夜の調べ」という、30分の音楽番組を私が全部アレンジと指揮を任された。でも、アレンジの仕事ばかりしていたんですね。

アレンジは左脳を使うと言われていて数学的なんです。でも作曲は右脳を使う。だから、アレンジばかりしていると作曲が下手になる。これはやばいなと。それで、勇気を持ってNHKの仕事を辞めちゃったんですね。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事