三田評論ONLINE

【話題の人】
小林亜星:テレビの時代を駆け抜けた作曲家

2020/01/15

  • 小林 亜星(こばやし あせい)

    作曲家
    塾員(1955 経)。普通部より慶應義塾に学ぶ。テレビCM、アニメ主題歌、歌謡曲でヒット曲を量産。1976 年「北の宿から」でレコード大賞受賞。

  • インタビュアー三田 完(みた かん)

    作家・塾員

普通部時代に進駐軍のクラブに出演

──2019年は、ご自身の集大成とも言えるCD集『「小(こ)んなうた 亞(あ)んなうた」〜小林亜星 楽曲全集〜』(全4巻)を出されました。まとめて亜星さんが作られた歌を聞くと、私はちょうどテレビができた頃に生まれたものですから、本当に懐かしい。

小林 恥ずかしいのですが、全部覚えているかと思ったら、結構記憶にない曲もあるんですね(笑)。無責任なようで申し訳ないのですけど、当時は毎日やたらと仕事をさせられていたんだなと思って。

──でも、忘れるぐらい忙しいほうがヒットが生まれるんじゃないですか。

小林 そうだと思います。

──亜星さんは普通部にお入りになったのが終戦の年の春になるのですか。

小林 そうです。その頃、普通部は三田にあったんですが、5月の空襲で焼けちゃったんですね。焼け跡に後片付けに行ったりして、その後は、天現寺の幼稚舎の校舎を間借りするんです。

──普通部にお入りになったのは、親御さんのご意向ですか?

小林 親はとにかく医者にしたかったのでしょう。慶應に行ってそのまま医者になれと。でも、えらい迷惑で、医学部なんていうのはね(笑)。

──普通部にお入りになった頃は、何か楽器はやっていたのですか。

小林 最初は馬術部に入ったんですよ。それが、間もなく戦争が終わったら急に進駐軍の放送が始まって、ジャズが好きになっちゃったんだね。それで、慶應は戦前からハワイアンが盛んだったから……。

──大橋節夫さんとか。

小林 そうそう。それで普通部の1年の時、ハワイアンバンドを、原田実君たちと組んだのです。原田君は後に自分のバンドの「ワゴン・エース」と「小坂一也とワゴン・マスターズ」で活躍するんです。原田君がスチールギターで私はサイドギターでした。

──演奏は、どういうところでおやりになっていたんですか。

小林 終戦後、新橋のガード下に「ニッカポッカ」という進駐軍のクラブができたんですよ。そこに我々のバンドも出ていた。

進駐軍にしてみれば、戦争に勝って日本に来たら、子供が自分たちのヒットソングを演奏しているというので、たまげたんです。それが、入口のところに写真が出てしまって、先生に見つかって、怒られて。

そして親父にもえらい怒られて、ギターも風呂の焚きつけにされちゃった(笑)。ハワイアンなんて不良みたいに思われたのですよ、その頃は。

岡田忠彦先生との出会い

──それは大変でしたね。

小林 原田君も学校をやめちゃって、この学校ではやっていけないかなと思っていたんですが、新制高校1年になった時、岡田忠彦先生という、国立音大の作曲科を卒業したばかりの先生が音楽教師として赴任してこられたんです。その先生が私に、コーラスをやりなさいと言われて。

「なんだ、コーラスか」なんて思って、いやいやながらやったんだけど、それまでバンドをやっていても譜面が読めなかったんですよね。それがその時コーラスをやって譜面が読めるようになったわけ。

──岡田先生のご薫陶のおかげで。

小林 僕は塾高の第1期生なんです。

──第1期生は不思議と、音楽をやる方が多いのですよね。

小林 私はH組だったんですよ。H組には林光君と冨田勲君がいた。3人とも同じクラスだったんです。あとは小森昭宏君も同級生でした。

──それは豪華な。

小林 昼休みになると音楽談議でした。冨田君や林君はお医者さんの倅で、2人とも小さい時からピアノを弾いて、作曲も習っていた。林君は、普通部の時から一緒だったんですよ。

終戦直後、「アメリカ交響楽」というガーシュインの伝記映画があって、それを普通部で皆で見たんです。体育館にアップライトのピアノが置いてあって、誰が弾いてもよかったんですけど、林君が映画の全曲を暗譜して弾いちゃったんです。それで皆、たまげちゃった。林君はそのくらい才能があった。

高校になると、岡田先生が授業で和音や何かを教えてくださって。先生には何から何までお世話になりました。それで、塾高3年の時、女子高と音楽同好会(現在の楽友会)をつくったんですよ。今でも楽友会は大学にあって、大きな組織になっているんだけど、最初は要するに女子高の女の子と一緒に何か歌いたいという根性でね(笑)。

──やや不純な動機と。

小林 岡田先生がご指導くださって、混声合唱をやったんですが、その混声合唱のための曲を「お前、何かつくれ」と岡田先生に指名されたんです。それで「ホーム・ソング」という曲をつくったんですね。それが私が作曲した初めての曲です。それが割と評判がよくて。このことがこの道に入るきっかけといえばきっかけになった。

岡田先生は、我々が自分の初めての生徒だったんですよ。だから、やけに可愛がられてね。一生お世話になった。

──お宅などにも伺っていたのですか。

小林 卒業して、私がこの仕事を始めてからも、皆でお宅に行ったり、奥様と皆で八ヶ岳にキャンプに行ったこともありますよ。今でも奥様はお元気なので、時々お会いしています。

1975年には、岡田先生から「楽友会のために何か書いてみないか」と言われて「青春讃歌」という曲を書かせていただいた。ご逝去された時、2016年の「岡田忠彦先生を偲ぶ会」で皆で久しぶりに歌いました。その時、また何かつくりなさいと皆さんがおっしゃったので、6曲からなる組曲「街」をつくらせていただきました。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事