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檜原麻希:ニッポン放送初の女性社長に就任

2019/10/15

「オールナイトニッポン」の力

──ラジオというのは、番組にハガキを書いていた人が有名人になったり、クリエイターを生み出す場でもある。視聴者との距離感もメディアの中では独特の面白さがありますよね。

檜原 そうですね。ニッポン放送という社名より「オールナイトニッポン」という深夜番組のほうが有名で、もう50年以上このタイトルでやっているんです。「若者の解放区」ということで1967年にスタートして、それを続けてきたことがブランドに成長した理由なのかなと思います。

この番組は、その時代時代のスターを輩出するのが1つのミッションなんです。また最近活況で面白いんですよ。午前1時〜3時の本丸の「オールナイトニッポン」が、月曜日から菅田将暉、星野源、乃木坂46、ずっとやっている岡村隆史君と来て、金曜日が三四郎、土曜日がオードリーです。

そして、昔「オールナイトニッポン第2部」と言っていた午前3時からの「オールナイトニッポン0(ゼロ)」という枠がまた人気です。これはラジコでタイムフリーという機能ができてから、深夜に起きていなくても聴けるのが大きいんですね。

面白いのが、水曜日にテレビ東京の佐久間宣行さんという方がしゃべっているんです。この方はテレ東で「ゴッドタン」とかお笑い番組のプロデューサーをやっているのですが、秋元康さんにプッシュされてこの4月からやってもらっているんです。あっという間に大人気になって、今度番組でやるイベントのチケットは即完売ですね。

──日本のエンタメが面白くなっていくための生態系みたいなものができているんですね。

檜原 私の時代は、中高生が「オールナイト」を聴いていても、大学生や社会人になると卒業してしまったんですが、ラジコのおかげで、今は皆ずっと聴き続けてくれているんです。

そうやって20代の人たちも皆、聴き続けてくれている。若年層にとってはラジオの深夜放送というコンテンツはすごく意味があると思っています。

「コンテンツファースト」を目指す

──その時間帯に聴いていなくてもよくなったから、本当に面白いものなら、いつでもどこでも誰かが聴いてくれるという感じですね。

檜原 そうですね。もともとラジオ局というのは時間軸で動いているんです。編成という業務の美学はどの時間に何をはめるか。そこがある種放送局の面白さでした。

ところが、デジタル化されていろいろなデバイスが出現すると、時間を選ばなくなった。タイムテーブルをつくるのは、もうリスナーになっているのかもしれない。今は皆、テレビやラジオ、ネット、ユーチューブとか関係なく、自分の中で必要なものを選んで並べているんだと思うんです。

──それで、本当に面白いコンテンツがあれば、見るし、聴くんですね。

檜原 そうです。だからやはりコンテンツが大事で、もう1回「コンテンツファースト」を見直そう、という話を会社の中ではしています。

3つポイントがあると思っていて、1つは面白いことをやろう。それから、新しいことをやろう。もう1つは、誇りに思えることをやろう。この3つに尽きると思っています。

──「誇りに思うこと」というのは、「ニッポン放送らしさ」を出すということですか。

檜原 今年が開局65周年なのですが、その間に先輩たちがつくってきたものを大切にしたいです。1つは「オールナイトニッポン」で、これは誰もが否定できない会社のレガシーです。他の番組では、「ショウアップナイター」は、これも50年を超えています。

あとは「ラジオ・チャリティ・ミュージックソン」ですね。これは今年で45回目になる、毎年クリスマスにやっている24時間のチャリティー番組です。視覚障害者の方々のための首都圏の音の出る信号機の5機に1機は、ニッポン放送のチャリティーでつくってきたものなのです。この番組の初代パーソナリティは萩本欽一さんで、それをテレビに持っていったのが、日本テレビの「愛は地球を救う」なんですね。

そのように誇りに思えるレガシーを踏まえて次のものをつくっていかなければいけないと思います。それは社会貢献でももちろんあるので、自分たちがそのブランドに誇りを持つということがやはり必要だと思います。

そして、ラジオが一番強いところは、番組のパーソナリティーの信者が熱狂的なファンになるので、それがムーブメントになるところです。

──実はイベントの動員力もあるメディアですよね。

檜原 そうですね。オードリーなんて武道館を番組のイベントでいっぱいにしています。1万2,000人プラス、ライブビューイングで1万人ですからね。お客さんは皆すごく幸せそうです。

──すごいですよね。きっと居場所みたいになっているのですね。

檜原 番組のイベントは今、とても増えています。そうするとラジオの放送だけではない、いい形のエコシステムができてくると思っています。

フランスの高校から慶應へ

──檜原さんは大学時代はどんな学生だったんでしょうか。

檜原 大学時代は、友だちとお茶ばっかりしていました(笑)。サークルは最初は欲張って、カメラクラブと映画の同好会、それからテニスの同好会にも入りました。テニスは割と一生懸命やっていましたね。

──帰国子女で、フランスにいらしたんですよね。

檜原 親の仕事の関係で、5歳のときにイギリスに行き、小学校5年ぐらいで帰ってきて、また中3からパリに行ったんです。

──高校はずっとパリなのですか。

檜原 そうです。大学に入学するので日本に戻ってきて慶應に入ったんです。向こうに残ることも考えたんですけど、親戚にも慶應の人が多くて、死ぬまで友だちでいれるから、是非慶應がいいよ、と言われたんです(笑)。

実際すごく楽しい学生時代でした。時代が確かに大らかというか、何か明るいきざしに満ちていましたね。

──文学部の何学科ですか。

檜原 哲学科の美学美術史学専攻で西洋美術史をやっていました。おしゃれでしょう(笑)。すごくよかったのは、美術展に頻繁に行けたことですね。ゼミはレンブラントがご専門の八代修次先生でした。ちょっと軟派な人たちは、いろいろな大学で集まってパーティをやったりしていましたね。

自由は今よりあったかもしれませんね。今は個人情報に始まり、ルールが煩雑な一方、ネットの利便性が高いので矛盾の中で生きている感じがします。皆ビッグデータを集めて商売をしたいと思っているわけじゃないですか。当時はまだ携帯もなかったですからね。

──社会に出てから慶應でよかったなということはありますか。

檜原 慶應はやっぱり独特ですね。そもそも池上君と知り合うみたいな(笑)。

──連合三田会の当番年で檜原さんとは知り合ったわけですが、私にとってはとても有り難いことでした。

檜原 よくできた慶應のこのシステム(笑)。マスコミは慶應だけで集まるとかあまりないんです。それが連合三田会という仕組みで卒業10年、20年、30年というときに「手伝ってよ」と言われて、20年上の先輩にすごくかわいがってもらったんです。

──この縦のつながりはすごく貴重ですね。

檜原 普通は10年上とか20年下って、学生時代には決して出会わないでしょう。そこはすごいなと思いますね。やはりいい学校だと思います。

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