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安永雄玄:ビジネスの経験を活かして築地本願寺を改革

2019/06/17

さまよう現代人の宗教心

——今、一般の人はお寺とのご縁がどんどん薄くなってきていますね。葬儀の時しかお寺に行かない。真宗は非常に教義に対して厳格で、迷信などの類いは一切否定し、ひたすら「南無阿弥陀仏」をお唱えして、極楽浄土へ行くという考え方をしっかり伝えます。でも、現代の社会は、現世利益というか見返りをすぐ要求するようなところがある。お寺に来てもらうために苦労されていることはありますか。

安永 昔は寺院というのは寺檀制度の中において優位に立っていたわけです。地元のコミュニティの主で、場所によっては結構大きな地主でもある。民衆は寺檀制度の中に、ある程度縛り付けられて、お寺に貢物をする。お寺はそれによって成り立っていた。

ところが戦後、高度成長とともに核家族化し、さらに今は個人化が進みました。そして、寺檀制度のがなくなって、個人は1人でさまよっているわけです。「私は特定の宗教に帰属していません」という人が首都圏では6、7割です。しかし、その人たち一人ひとりは、意外と信心深くて、クリスマスは祝うし、初詣はするし、仏滅や大安吉日は信じている。ある意味信仰だらけの世界の中で帰属意識のない人たちが育っているのです。これは宗教心がなくなっているわけではないですよね。

——なるほど。さまよっている。

安永 浄土真宗も教義に厳格なのは良いですが、やはり言葉の使い方という面では、現代化させる努力を怠ってきたと僕は思っています。だから、親鸞聖人のお言葉を現代に合わせて、新しく翻訳し直して伝えていく努力が絶対に必要なのだと思っています。

単にお念仏が大事だと言っても、普通の人には通じない。現代においては阿弥陀如来の救いやお念仏を翻訳し直す必要があると思うのです。 親鸞聖人も、あの時代に経典を読んで非常に独創的な解釈をされたわけですね。現代では生老病死の中で、「生」と「老」はそれほど苦ではなくなっている。このような時代で信仰を伝えていくというのは、なかなか難しいことです。昔と同じような伝え方をしたのでは、僕は伝わらないと思いますね。

——そうですね。でも、これは結構大変な作業ですね。

安永 でも、それをしていかないと、日本の仏教界はもうとても生き残れないと思います。思想の核になる時代を越えた教義はもちろんある。それを現代に合わせて伝える方向に調整していかないといけないと思っています。

——若い方たちへの布教というのは何かお考えですか。

安永 若い人のほうが逆に信仰を渇望しているように私は思います。これは各種のいろいろな調査にも表れていて、中高年の方が非常に懐疑的です(笑)。

今、「スクール・ナーランダ」という新しい学びの場で、若い人たちを集めてパネルディスカッションをし、皆で話し合って、現代における救いや死といったものを考えるようなセッションをしています。

慶應の日吉で開講されている『21世紀の実学』に一度登壇させていただいたことがあるのですが、終わったあとにズラッと学生が並んで人生相談みたいになりました。若い人が何に反応してくるかと言うと、1つのキーワードは「失敗」です。人生における失敗というのは、全然恐れることではないのです。「私なんか受験で2回失敗して2浪している」みたいな話をすると、皆、目がらんらんとしてきます。若い人のほうがむしろ宗教に対して信号をキャッチしようとアンテナを立てているように思いますね。

われわれ伝統仏教が、適切なやり方でアプローチして、信仰や信心を伝えていけば、必ず納得感を持って受け入れていただけると思います。

ビジネスの世界からお寺の世界へ

——安永さんはビジネスの世界からなぜお寺の世界に入ろうと思われたのですか。

安永 ビジネスの世界は合理的な構造で成り立っているじゃないですか。でも、現実にはもっとドロドロしていて、必ずしも1+1=2じゃないし、収益至上主義といっても温情もある。私は銀行にいましたが、銀行は必ずしも清く正しく美しくやってきていない、と思っていました。

私が勤めていた三和銀行は結局、不良債権の処理に失敗して三菱銀行と一緒にならざるを得なかった。あれは今から考えても、限度を超えてやり過ぎた。「神の見えざる手」を無視して合理性だけで突っ走っていった咎(とが)なのだろうという意識がありましたね。

銀行を辞めてコンサルタントになってからも、そういうことにやはり何らかの形で自分なりに落とし前をつけたいという気持ちがあり、だから、仏教の勉強をしようと思ったんですね。

仏教の勉強をする通信教育の学校に入り、一番難しいお坊さんになれるコースを選んだんです。スクーリングが月に2回ぐらい築地本願寺であり、そこで仲間ができ、励まし合って、その10人程の仲間とともに皆3年で卒業してお坊さんになりました。

そういう中、慶應の先輩に声を掛けられ、その先輩のお寺を手伝いに行くことになったんです。三田の近くで、先輩の父親で文学部中国文学の藤田祐賢(ゆうけん)教授が住職を務めていた宝徳寺というお寺の副住職になり、3年程、お坊さんとしての実務をやったんですね。

——なるほど、それは大きいですね。

安永 そこでお経を上げ、ご遺族、門徒さんのために説教をし、お話を聞くという実践の中で、僧侶のあるべき姿みたいなものがだんだん体得できるようになっていきました。

結局、そのお寺は副住職のまま退任して、藤田先生の亡くなった後、僕を引っ張り込んだ先輩が跡を継いで住職になっています。それからしばらくして、先ほど申し上げた宗門と本山の改革があり、その時に宗門の常務委員、築地本願寺の評議員に有識者として参加することになりました。

そこの会議でガンガン意見を言っていたら「そんなに言うんだったら、プランをつくってくれ」と。それで案を出したら、どうも採用するらしい。それで、「あんたがつくったんだから、やってくれ」と言われ、宗務長になったという経緯です。

——お話を伺うと、本願寺派は、かなり新しい血を入れる工夫をされている感じがします。これはやはり組織が生き残っていくために必要ですよね。

安永 おっしゃる通りで、異文化を取り込んで新しい文化を生み出すということは一般企業と同じで必要ですね。

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