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葛西健:WHO西太平洋地域事務局長に就任
2019/03/15
感染症対策の重要性
——以前、本誌(2003年6月号)に、葛西さんにSARS流行時の対応について書いていただいています。感染症の課題は特にどういったものが挙げられますか。
葛西 西太平洋地域は感染症の震源地として、それから、域外で発生した感染症の飛び火を受けるという両面においてリスクが非常に高い地域と言っていいと思います。ですから、将来にわたり準備をしなければいけない。
日本に対して少し警告を出すとすると、例えば今週、7つオペレーションしているうちの1つは日本のルベラ(風疹)流行に関してです。日本政府は先日、非常にしっかりした対策を打ち出したので信頼は担保されていると思いますが、感染症は日本にとってもやはり重要なことなのです。
私がそれを特に実感したのは、2015年に韓国でMERS(中東呼吸器症候群)が流行したときです。韓国の医療水準は非常に高いにも拘らず、186名の患者が報告されました。キャパシティがあることと準備がされていることとは別物なのです。
中国はSARSで痛い思いをして、今はかなりレベルの高い感染症対策を行っている。韓国もMERS流行で法律も改正しています。日本は着実に実力を上げてはいますが、日中韓で唯一、痛い経験をしていない。
——私たちも病院の中では院内感染対策は大きなウエイトを占めています。やはり個人の意識を変えていかないと、クオリティの高い予防策はできない面もありますね。
葛西 おっしゃるとおりで、先進国でも全く油断はできません。特に韓国のMERS流行は大手の非常にしっかりしていると言われている病院の中で起こりました。議論はしていても、実際のアクションにつながっていかなかった面があった。
——その要因は何だと思いますか。
葛西 一番大きかったのは、マニュアルをつくったところで準備ができたと思ってしまった。そして、まずそのマニュアルが理解されていなかった。
それから、理解されているだけではなく定期的に演習をしておく必要がありますが、それができていなかった。あとは部門間の情報共有がなかったことです。
それは院内でも、病院間でも、病院と保健医療の部門でも、保健省とほかの危機管理の部門でも足りなかった。ですから、本当は必要がなかった学校閉鎖なども全国的に行われ、経済的にも大きなコストがかかったのです。
——やはり経験値は非常に大きいですね。
葛西 感染症対策は、基本的にはそれを早く見つける仕組みをつくることです。そして、ここからが難しいのですが、そこで上がってきた情報をきちんとリスク評価という判断をして、それに基づいて決断をする。
最終的に誰かが決断をする仕組みを事前につくっておかなければいけない。そして、最後の決断の部分は数あるオプションの中で「これで行こう」と選ぶわけですから、組織の中で、その行為に対するコミュニケーションを事前に詰めておくことがとても大事だと思います。
——WHOは各国政府に対し、執行力はどこまであるのですか。
葛西 SARSのときには渡航延期勧告を出しています。それを執行するかどうかは各国の判断ですが、実質はWHOが渡航延期勧告を出すと、各国もだいたいそれに従います。
一方、国内での対策がその周辺国あるいは世界全体に危険を及ぼすような場合には、「国際保健規則」という国際規約があり、WHOが介入して直接、勧告を出す場合があります。
——人の動きを止めるので当然、経済的にネガティブなインパクトは大きい。それに対する反発もあるわけで、決断には葛藤もあるでしょうね。
葛西 SARSのときに目撃した決断の過程も、やはり時間はかかっていました。世界全体に影響を及ぼすものですから。
その決断はWHOという組織の中では、地域事務局長になる私と、本部の事務局長の2人が相談して決めることになるので、その心の準備をすることが必要です。また、「こういう事態が起きたときには、このような決断をします」ということを、事前に各国の保健大臣たちと共有することが大事かと思います。
IMAで国際医療に目覚める
——少し大学時代のことについてもお伺いしておきたいのですが。
葛西 それは困りましたね(笑)。諸先輩方と同じで、運動ばかりをやっていて。テニス部に入っていて東医体(東日本医科学生総合体育大会)の1部で優勝した記憶があります。
——それは素晴らしい。
葛西 そして、まさにこの道に進む契機になったのは、慶應医学部のIMA(国際医学研究会)がきっかけです。
実は移植外科医になりたいと思っていたのですが、6年生のときにブラジルに行って1カ月間過ごし、自分が今まで全く想像していなかった世界があることに気付かされて、国際的な場所で働きたいと思いました。
卒後は、広い世界を見るのだったら、慶應の教室に入るよりも、すぐ外に出てしまおうと考え、厚生省の先輩に相談をしたところ、「それはいい。視野を広げたらいい」と言われて厚生省を受けました。
——鈴木康裕さん(現厚労省医務技監・塾員)との関わりはあったのですか。
葛西 影響はとても大きかったですね。臨床もきちんとやりたかったのでご相談したところ、「濃縮された形で臨床の研修ができる」と言われ、厚生省から岩手医科大学の救急センターに行くことになりました。ところが、救急医なので、濃縮どころかもう食事の時間もない(笑)。でも非常に楽しかったです。
キャリアの最初に厚生省に入ったことは、私にとっては幸運だったと思います。WHOというのは基本的には各国の政府とやりとりをしてその政府の仕組みを変え、その上で人々の健康に寄与するという働きをするわけで、日本の保健行政の組織で獲得した経験や技術はとても役立っていると思います。この職務経験がなかったら、WHOでこういうポジションに就くことはなかったのではないでしょうか。
——いつからWHOのトラックに入っていったのですか。
葛西 当初は厚生省とWHOを行ったり来たりしていましたが、WHOの感染症課長のポストが空いたので試験を受けて選考に通ったのです。以来、もうWHOでトータル18年を過ごしたことになりますね。
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