三田評論ONLINE

【話題の人】
分部庸子:校長として自動車整備士を育てる

2018/08/14

熱意のある外国人留学生

──就任から2カ月が経ち、どのような学校を目指されているのかなど、お話しいただけますか。

分部 今、大きく2つの課題に直面しています。1つは応募者が激減していること。現在残念ながら定員割れしている状況です。これを何とか定員まで持ち上げなければいけない。できるだけ四国の高校生を集めていますが、もう少し長期的な視点で、対象層を増やす必要があると考えています。例えば1回社会に出た方、あるいは経験者に学び直しをしていただく。

また、外国人留学生を増やすことが大きな使命かと思っています。今年も2名のミャンマー人の学生が入ってくれましたが、もう少し増やして1割ぐらいまでにしたいと考えています。

──留学生で日本の自動車について学びたいという方は多いのですか。

分部 私たちは応募していただく前に必ずオープンキャンパスに参加してもらうのですが、そこに参加するミャンマーの人たちの目を見ると、本当に車好きなのだということがよくわかります。ちょうど3、40年前の日本の学生たちが車に熱狂していたような状態が今あるのではないかと。

ミャンマーの方が多いのには理由があります。現理事長の岡さんが、若者の車離れの状況を感じて、これは何かしなければいけない、日本の持つ整備技術を海外に売り込んでいこうと、ミャンマーに整備学校をつくろうと決めました。同校で学んでもらい、愛媛日産という販売会社の現場で整備技術を実践する。その後はミャンマーへ帰り、同地の学校の先生になり、後進を育成していくというキャリアルートです。そのような事情で、当校はミャンマーからの留学生を優先的に採っています。

整備士は国家資格なのですが、試験問題には難しい漢字がとても多い。これを留学生が受けるとなると合格は相当困難です。国土交通省には是非配慮いただければと思っています。

──課題のもう1つは何でしょうか。

分部 今申し上げた国家資格試験のことです。当校の場合、3年前まで1級、2級ともに合格率は100パーセントでした。ところが2年前、1級が非常に難しくなり、全国的に合格率が大きく下がりました。当校だと今年は60%でした。全国では23%ですから、それでもメーカー校は高いのですが。

──そんなに厳しいのですか。

分部 医師の国家試験でも、ここまでひどくないと思います。親御さんから学費を2年分いただくのに、1級を目指しても4割が受からない。何とかして8割程度までには上げたいと考えています。

学生たちには、1級は誰もが受かる資格ではなく精鋭が選ばれる試験になったのだから、これからのキャリアは1級を持っているとより有利になるので、是非頑張りなさいと言っています。

──1級と2級では扱える範囲が違うのですか。

分部 これから車自体が、自動運転にしろ電気自動車にしろ、より電動化、電脳化していきます。そういったものを診断・修理できる高度な能力を持つのが1級整備士と考えていただければいいと思います。「1級整備士が欲しい」という販売会社さんも多いのです。

豊富な海外赴任経験

──整備士を目指す人は男性が多いと思いますが、女性はどのぐらいいらっしゃるのですか。

分部 在校生のうち9名で、今年の新入生は5名です。日産の5校で5%を超えているのはうちだけですが、もっと頑張りたいと思っています。

──そこに分部さんが初の女性校長として来られていかがですか。

分部 JAMCA(全国自動車大学校・整備専門学校協会)には、今50校が加盟していますが、私も含め女性校長は5名です。ただ、私自身、そもそも日産自動車を選んだ時から女性であることをあまり意識していません。ロードマン時代も、自覚が足りなかったかもしれません(笑)。

──1983年に大学を卒業して、すぐに日産自動車に入られます。まだ均等法の前の時代ですよね。

分部 そうです。制服を着てお茶くみをしていました。当時、最初の面接の時に「何年勤めますか」と必ず聞かれましたが、一応5年と答えました。寿退社したいと思っていたので(笑)。

──入社後、米国日産や欧州日産など、海外に行かれていますが、海外での仕事を希望していたのですか。

分部 全くそうではありません。これもまた大声では言えませんが、入社当時、TOEICが400点台で(笑)。

──でも、1989年に米国日産に研修で行かれますね。きっと選ばれる理由があったのですね。

分部 これも女性としては初めてだったと思います。入社3年目ぐらいから仕事がすごくおもしろくなってきました。上司にも恵まれ、交換部品が1つ売れるだけでも嬉しかったのです。

研修時代も、現地のロードマンとともに、販売会社の整備工場を回っていました。市場には日産の部品だけではなく、いわゆるOEMメーカーブランドの部品が流通しており、自社ブランドと競合するわけです。どうやったら日産の純正部品を選んでもらえるかを彼らと一緒に真剣に考え、本当に楽しくて仕事にハマった感じでした。

──その後、英国日産設立プロジェクトに参加され、95年に欧州日産に行かれますね。

分部 当時、英国の日産代理店の社長と日産本社の間で方向性に関して意見の相違があり、日産が100%自己資本の販売会社をつくることになったのです。それにアフターセールス側から参加するかたちでした。それこそゼロから、例えば部品番号が載っているカタログをどう調達するかというようなことからやりました。

──2003年に日本に戻られて、ロードマンになられ、それから今度はインド日産の副社長になられます。

分部 インド日産はスタート時、50人でした。インド日産以外に開発部門の会社、工場、さらに商用車の会社、販売だけをしているインド資本の会社があり、この5社でどうやって連携していくかが私の大きなテーマでした。

インドならではの課題がたくさん出てくる中、それを整理して、優先順位をつけ、誰をそのパイロットに充て、どうやって解決していくか、またその解決を担う人材をどう育成するかが、この時の仕事でした。

──それまではアメリカやヨーロッパでしたがアジアは初めてですね。

分部 欧米の場合、モータリゼーションが進んでいるので、私が教わっていた部分が多かったのですが、インドは驚くことばかりでした。まず、人材はほとんど自動車の経験のない人たちです。昨日までスーパーで働いていたとか、農業や漁業をしていたという方もいて、このような人材をどのように教育していくかが大きな課題でした。

実習教室にて
カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事