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分部庸子:校長として自動車整備士を育てる

2018/08/14

  • 分部 庸子(わけべ ようこ)

    日産愛媛自動車大学校校長
    塾員(昭58文)。大学卒業後日産自動車入社。欧州日産経営企画室、国内マーケティング部門、インド日産副社長等を経て、2018年4月より現職。

自動車大学校とは

──分部さんは今年の4月から自動車整備士を養成する、日産愛媛自動車大学校の初の女性校長になられました。まず自動車大学校というところがどういうところなのか、簡単にご説明いただけますか。

分部 最初に大学と専門学校、職業学校の違いをお話ししたほうがいいかと思います。大学はご存じのとおり、学術的な研究を行う高等教育機関で教育課程を終えると学士や修士、博士といった学位が与えられます。管轄は文部科学省です。

これに対し、当校のような専門学校は高等教育機関ということでは同じですが、専修学校という括りのうちで専門課程を置く教育機関であることが特徴です。この専門課程が当校の場合は「自動車整備」ということです。勉学を目的としている点では、大学と同じなので、高度専門士・専門士といった資格を文部科学省から与えられます。学校認可や国家試験の管轄は国土交通省になります。

一方、いわゆる職業訓練校というのは違っていて、管轄は厚生労働省で、労働者を育成することを目的としています。具体的に何が違うかというと、専門学校では一般教養を、ある時間履修することが義務づけられていますが、職業訓練校はその縛りがありません。また専門学校を卒業すると学歴になりますが、職業訓練校は職歴です。

──高校を卒業した人が主に行くと考えていいのですか。

分部 はい。主に18歳の、高校を終えた方が入ってきます。さらに1回社会に出てから整備士になりたいということで入る方もいます。

──日産には今、自動車大学校が5つあるとお聞きしています。

分部 当校はその中でも歴史が1番古いのです。1977(昭和52)年に、当時、愛媛日産の社長だった岡勉さんが整備士を育成する機関をつくりたいと創立しました。今年の4月までこの岡一族のプライベートスクールであったのが、寄付をいただき愛自学園というかたちで学校法人化されました。

岡勉さんは愛媛で愛媛日産を経営しながら、将来、モータリゼーションが進み、販売会社の店舗が増えてくると整備士が不足するので、早くから整備士を育成したい、その際には日産という名前を冠したいという思いで、愛媛日産の隣に学校を創立したのです。とても先見性があったと思います。

──卒業生は皆さん、日産の販売店に入り整備士になるのですか。

分部 就職で言えば、今は200%、300%の求人が来ている状態で引く手数多です。18歳人口が減っていることもありますが、若者の車離れで整備士志望者が少なくなっていることが大きいかと思います。

就職先は、日産自動車の販売会社以外にも、サプライヤーさんとか、あるいは今年初めて日産本社の開発部門、NTCというところに1人入ることができ、これは快挙だと思っています。それ以外にトヨタの販売会社さんにも行きますね。景気は波がありますが、開校以来100%の就職率を維持しているのも当校の特徴です。

──学校は何年制なのですか。

分部 科は2つあり、1つは2級の国家資格取得を目指す自動車整備科で2年制。もう1つが国家資格の1級を目指す1級自動車工学科で4年制です。在校生はすべて合わせて174名で、今年の入学者は54名でした。

「ロードマン」から校長へ

──このたび校長に就任されたのはどういうきっかけだったのですか。

分部 私は日産自動車では、欧米担当を経験した後、国内のアフターセールス部というところに長くいました。お客様に新車を購入していただいた後、点検や車検などのケアをする部門です。

欧米担当では、結局、お客様に直接触れるのは現地の方々で、日本人ができることには限界がありましたので、どうしても日本の現場で仕事がしたくなったのです。そこで、国内アフターセールス部に移してくれれば10倍働きますと約束して(笑)、そこで任されたのが「ロードマン」という仕事でした。

──ロードマン?

分部 皆さんご存じないと思います。要は、全国の販売会社、部品販売会社に対して施策の展開をし、現場の声を拾い上げて本社にフィードバックする、つまり「ロード」を続ける職種です。

販売会社さんは大体土曜、日曜もやっていますので、月曜日だけ東京の本社に行き、火曜から日曜までは担当地域を回り続けるんです。

──すごいですね、そんなハードな。

分部 部門では女性初でした。担当が中国、四国、九州・沖縄で、担当会社が58社ありました。

──やたらと広いですね。

分部 リゾートロードマンと言われていました(笑)。その58社のうちの1つが愛媛日産でした。だからロードマンとしてここにはよく伺っていたのです。当校の入学式にもお邪魔して祝辞を述べさせていただいたりしました。

その後、現理事長の岡豊さんから「学校をやってみないか」と声をかけていただきました。彼は慶應の同級生で日産でも同期でした。当時はまだ日産に勤めておりましたし、その後ファルテックという部品会社に移った際も本当に忙しくしていたので、実現しませんでしたが、家族の健康問題もあって退職し、1年たったところで、改めてお誘いいただき、松山に来たというわけです。

岡さんは日産自動車を辞めて愛媛日産の社長を継いでいらっしゃったのですが、塾の卒業25周年のときに親しくお話しし、愛媛校の良さを再認識しました。本当に、慶應というのは人の縁があるところです。

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