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松本隆:ジャンルを越えて挑戦を続ける作詞家

2018/02/01

肌で感じた「壊れたアメリカ」

──そこから日吉の慶應高校に進まれて、いよいよ本格的に音楽活動に取り組むわけですね。

松本
 親をちょっとだまくらかして(笑)、ドラムを買いました。それが高校1年のとき。でも、高2ぐらいで、もうドラムのコンテストの全国大会で優勝しているんですよ。それで、TBSの『ヤング720』という朝の情報番組で、ドラム・ソロを演奏できることになりました。担任の先生に「こういうわけで午前中休みます」と許可を取って。でも、朝の情報番組で、生のドラム・ソロってすごくない?(笑)。

──今ではなかなかないですね(笑)。

松本
 司会は北山修さんでした。ああ、こういう人は格好いいなと思っていたけど、のちにライバルになるわけです。

──高校でつくったバンドが「バーンズ」で、大学では「風林火山」というサークルで活動されました。

松本
 風林火山はコンサートの企画団体で、たぶんザ・フィンガーズ(成毛滋らが結成)というバンドが母体になっています。もともとは五歩一 勇(ごぶいち いさむ)さんという先輩がつくった団体です。日テレで「シャボン玉ホリデ―」を手がけたプロデューサーですね。でも、風林火山は僕の代でなくなってしまいました。いろいろな理由があったんですが、やはり僕がはっぴいえんどをやらなければいけなかったからだと思います。

──当時、風林火山に集っていたバンドは、アマチュアとしてはトップレベルの実力だったと聞いたことがあります。

松本
 立教にもやはり同じようなSCAPという団体がありました。そして、この2つが合わさったところから、はっぴいえんどができた。そこに林立夫や鈴木茂、松任谷由実とかもいた。大学のサークル活動が、そのまま今のJポップの源流になっているわけです。

──バーンズから、エイプリル・フールを経て、はっぴいえんどが誕生します。

松本
 エイプリル・フールは、「ホップ・ステップ・ジャンプ」のステップという感じでした。アルバム1枚だけで解散しちゃったので、実際の活動期間は3カ月ぐらい。当時はよく新宿の「パニック」というディスコで演奏していたんです。ベトナム帰りの米軍兵がいっぱい来ていて、彼らから「アメリカ」というものの影響を直に受けました。

毎晩僕らの演奏に合わせて、彼らが踊っている。しかも彼らはベトナム帰りだから、少しおかしくなっている。いわば、壊れたアメリカです。

あと、アメリカの『ローリング・ストーン』誌の特派員だという人が取材をしたいと言ってきたんだけど、誰もその人が本物だと思わない(笑)。毎晩遊んで酒飲んでるだけの人だと思っていたから。そうしたら、本当に雑誌に大きく載ってしまった。たぶん日本のバンドで初めてだと思います。エイプリル・フールの短い栄光です。

──その頃の慶應というのは、大学紛争の真っ只中でしょうか。

松本 そう、ちょうどいい具合にロックアウトで(笑)、一年生のときはほとんど大学に入れなかった。その1968年には新宿騒乱もありました。あれに比べると、今の学生は本当におとなしい。もう少し暴れたほうがいいですよ。あまりおとなし過ぎると、何も変えられなくなって、つまらないと思う。

日本のロックを守った「論争」

──はっぴいえんどというと、どうしても「日本語ロック論争」のことに触れないわけにはいきません。1970年代初め、音楽雑誌上で「日本語でロックは可能か」が大きな議論となり、その後の日本の音楽シーンにも影響を与えました。

松本
 当時は、放っておくと本当に第一言語が英語になりそうな勢いだったんです。シンガポールなどは英語を選んで、自分たちの言語を放棄してしまった。日本もそうなるのではないか、という危機感がありました。

でも周りには、英語でロックをやりたい人がたくさんいて、英語至上主義みたいな風潮すらあった。今でも、クラシック音楽はドイツ語至上主義ですよね。ジャズだって英語至上主義です。

──たしかにそうですね。

松本
 それで日本語のジャズは滅びたんです。クラシックでも、結果として、例えばオペラで日本人は脇役しかできないんですね。日本には音大も芸大もあって、そこで何年勉強しても、脇役しかできないのはおかしい。輸入文化の限界かなと思います。卒業しても学校の先生にしかなれない。

それを目の当たりにしていて、じゃあロックは、となったとき、やはり自分たちの言葉で何か考えを主張しないと駄目だと思いました。それをはっぴいえんどでやって、そしてそれは受け入れられた。ロックを守ることができたんだと思うんです。ロックを守ったということは、そこからJポップが生まれたわけだから、今の音楽業界も守られたことになります。

でも逆に、あの論争に松本が負けたほうがよかったと言う人もいる(笑)。英語のロックになっちゃったほうが、もっと俺たちにチャンスがあったんじゃないかという人もいるわけです。

歌謡曲が全部英語で歌われていたら、やはり英語が第一言語になってしまうよね。ビジネスも英語になるだろうし、小学校も英語で教えるべきだ、となってくる。そうしたら、今まで千数百年の間積み重ねてきた日本文化なんてあっという間に無くなってしまう。それはやはり避けたいなと思った。何が正しいかは分からないけれども、とにかく僕は内田裕也さんにそういうことを言ったわけです。

──あのときは松本さんが20歳そこそこで、内田さんは30代前半。

松本
 あの対談は、教員室に呼び出しみたいな感じですよ。中村とうようさんは大雑誌の編集長だし、裕也さんもロックンロールのボスと言われている人だから。それで堂々と意見をしゃべっているんだから、偉いと思いますよ、20歳の僕は(笑)。

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