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松本隆:ジャンルを越えて挑戦を続ける作詞家

2018/02/01

  • 松本 隆(まつもと たかし)

    特選塾員。大学在学中に細野晴臣、大瀧詠一、鈴木茂と「はっぴいえんど」結成。解散後、作詞家として活躍。平成29年秋の褒章(紫綬褒章)を受章

  • インタビュアー近藤 正人(こんどう まさと)

    テレビ東京常務取締役・塾員

数々のヒット曲の詞を手がける

──このたびは紫綬褒章の受章、本当におめでとうございます。改めての感想をお聞かせください。

松本
 これまでもいろいろな賞をいただきましたが、これだけはちょっと別格ですね。道を歩いていて、知らないおばさんが2人、僕に深々とお辞儀をしていくんです(笑)。こういうことは生まれて初めてかもしれません。慶應の同級生で、音信不通だった人からも急にメールが来たりしました。ファンの人たちも、本当に自分のことのように喜んでくれましたね。


──作詞家として、これまで2100曲以上の楽曲を、400組以上のアーティストに提供。130曲以上がオリコントップ10入り、うち52曲が1位獲得。音楽史上に燦然と輝くキャリアです。

松本
 作詞家としてのデビューはチューリップの「夏色のおもいで」(1973年)ということになっていますが、自分としての発火点は「スローなブギにしてくれ」(南佳孝、1981年)かなと思っています。


当時、筒美京平さんに電話で「最近どんな仕事しているの?」と聞かれて、「南佳孝のシングル盤をつくっている」と言ったら、「なんでそんな売れそうもないものをつくるんだ」と怒っていた(笑)。

でも、僕が持っている情報から判断したら、この曲は間違いなく売れるんです。角川映画の主題歌で、原作が片岡義男さんで、もちろん僕は曲も詞も知っている。あとはシングルが出るのを待つだけ。つまり、この曲がヒットするということを、僕だけが知っている。そういう時間が2、3カ月あって、それが自分にとっての蜜月なんです。

──1981年前後は、そういう蜜月の時間がいくつもあったんですね。

松本
 そう、特にこの「スロー」のときは、みんなが売れないと思っているのに、自分だけは売れると分かっている。そのギャップがあるのが、ちょっといい仕事だなと思う(笑)。松田聖子のときもそうだったし、「ルビーの指環」(寺尾聰)も、「スニーカーぶる~す」(近藤真彦)もそうでした。「スニーカーぶる~す」は、京平さんが曲を書いていて、その感覚を2人で共有していたので、そういう感じもおもしろいなと思いますね。

──松田聖子さんには、松任谷由実さんや細野晴臣さん、財津和夫さんなど、きら星のごとき面々が作曲に加わりました。これはみなさんが書きたがったんですか。

松本
 いや、みんな最初は嫌がっていました。だから、僕が説得して回って書いてもらった。若松宗雄さんという慶應出身のディレクターが話の分かる方で、彼に許可をもらって、そういうことが全部できたんです。

──そのあたりから、ニューミュージックとか歌謡曲といったジャンルがなくなっていった気がします。

松本
 結局、僕の中にジャンルという考え方があまりないんですよ。これは生まれ持った感覚みたいで、子供の頃から、「この線から出てはいけない」と言われると、ああそう、と言ってもう右足で入ってしまっていた(笑)。はっぴいえんどという硬派のロックから、歌謡曲にスッと移動できたのもそういう感じでした。

そして、境界線を越えた後、この線は意味がないということを、自分が率先して証明するわけです。そうすると周りの人が気づいてくれる。あいつが行ったから、俺が行っても大丈夫かな、と思ってくれる。よく言えば、良心的な人柱みたいなものですね(笑)。

──でも、「あのはっぴいえんどの松本が歌謡曲に行った」ということで、いろいろな反応があったと思います。

松本
 そう。「商業主義に魂を売った」とさんざん悪口を言われました。でも、それも計算のうちだった。僕はもっと先を見ていて、それは必要悪の洗礼を浴びているだけだと思っていました。だから全然平気でしたね。

音楽と出会った中等部時代

──松本さんは中等部から慶應で学ばれていますが、中等部に進んだきっかけは。

松本
 母親がどうしても慶應に入れたがっていたんです。小学校は港区の青南小学校というところで、岡本太郎とかオノ・ヨーコさんとかも通っている。そこから中等部に進みました。

──2007年、中等部創立60周年のとき、同窓会の歌(『風よりも透明な日々』)の作詞を松本さんにお願いしました。中等部というのは、松本さんにとってどんな時間でしたか。

松本 最初に音楽に興味を持ったのが、中等部3年のときです。1964年。東京オリンピックもあったし、ビートルズもデビューした。ビートルズを最初に聴いたのは、クラスメートが「新人のバンドですごいのが出た」と言ってシングル盤を持ってきて、みんな「聴きたい」って言ったんです。

英語の鳥居英男先生の授業で、先生がポータブルのレコードプレーヤーを持っていて、「先生、これ聴いていいですか」と誰か勇気のあるやつが言いに行った。そうしたら、「いいよ」と言って、かけてくれた。一曲、「抱きしめたい」(I wanna hold your hand)だけ聴いたんです。それで先生が、「この“wanna” というのは“want to” の略だから覚えておくように」と。

──いい先生ですね(笑)。

松本
 でしょう。だから、大げさに言うと、そこで自分の音楽の芽が開いた、ということかもしれません。

担任は国語の仲井幸二郎先生で、池田彌三郎さんの弟子です。ちなみに、彌三郎さんの息子も同級生でした。あと、彌三郎さんの甥(雅彦氏)が、原田真二のディレクターだったんです。ある時期一緒にたくさん仕事をしました。だから実は、僕は池田彌三郎色が異様に強い影響下にある(笑)。

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