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小川明彦:大手に負けない地域密着型コンビニを展開

2017/12/01

  • 小川 明彦(おがわ あきひこ)

    大津屋代表取締役社長
    塾員(昭54 商)。卒業後、家業の大津屋に入社。1981 年、福井県初のコンビニエンスストアを開店。現在「オレボステーション」などを県内で展開。

  • インタビュアー髙橋 郁夫(たかはし いくお)

    慶應義塾常任理事、商学部教授

3つの業態の複合店

──まず、昨年テレビ東京の「カンブリア宮殿」でも大きく取り上げられ、いま福井で注目の「オレボステーション」について、改めて教えてください。

小川 オレボステーションの特徴は、3つの業態の複合店だという点です。「従来型のコンビニ」「お弁当・お惣菜の専門店」そして「オレボ食堂」です。オレボ食堂は、「美味い、安い、そこそこ早い 現代の大衆食堂」というキャッチフレーズで出しています。系列店も含めると福井全県で現在12店舗、広さは約100坪、イートインスペースも各店舗4、50席あります。

地元の人には、「オレボはコンビニであってコンビニでないみたいだね」と言われます。大学での恩師の清水猛先生からも、オレボステーションを最初につくるとき、「業態名を考えなさいよ」というアドバイスをいただきました。それで、「ダイニングコンビニ」という名前をつけました。店内で調理されたものを、その場で食べられる。そしてコンビニ機能もあるということで、便利なお店にしているつもりです。

──事業が軌道に乗るまでには、いろいろなご苦労があったと思います。

小川 昭和56年、オレンジBOXという福井で初めてのコンビニをつくりました。大津屋はもともと1573年創業の造り酒屋で、私も、純粋に酒屋を継ごうと思って戻ったんです。でも、トラックでお酒を配達してみて、この事業はかなり厳しいと感じました。

卒業時、清水先生からのアドバイスで「地元に埋没しては駄目だ。営業も赤いスポーツカーに乗って行け」と言われたんです。それで、赤ではなかったですが、黄色いサニーカリフォルニアという、当時では斬新なライトバンで営業に行きました。でも、やればやるほど、これは駄目だと思ったんです。

業務用の酒の世界は、いまでもそうかもしれませんが、生き馬の目を抜くようなところがあります。メーカーと業務店と問屋さんとで約束をしても、すぐ横入りが入ってきたり、お金を払わずにスナックのママさんが逃げちゃったり。そんな中で、何か新しいことをしないといけないと思いました。

お酒だけでは難しいし、みんな平日の昼間は働いているから、早朝や深夜、土日も買えるようにしないといけない。そして酒以外のパンや食品も置いて、ということで、これはコンビニをやるのが一番だと思ったんですね。

24時間営業への挑戦

──当時は日本もコンビニの黎明期ですね。

小川 東京にセブン–イレブンができた、ローソンができたという話は聞いていました。と言っても、当時のローソンはアメリカ風のデリカテッセンみたいで、上からハムやソーセージがぶら下がっているようなお店で、それをコンビニと呼んでいた。ですから、誰もコンビニを知らないということが一番の問題でした。

──当初から24時間営業だったんですか。

小川 「24時間やりたい」って家族に言ったら、「馬鹿言うな」って言われて喧嘩して(笑)。最初は夜は10時まででした。いまは全店、基本24時間です。そのほうが管理が楽なんです。

──なぜでしょうか。

小川 閉めなくていいし、開けなくていいからです。例えば、「朝6時から深夜零時まで」にしますよね。深夜零時になっても、雑誌を立ち読みしている人はいるし、出て行ってくれとは言えない。そこから後片付けや金銭管理をしていると1時くらいにはなります。翌朝6時に開けるとなると、少なくとも5時半には誰か来なきゃいけない。ではその人が寝坊しちゃったらどうするか。寝坊じゃなくてもその日雪で来られなければお店は開けられません。

あと、お客さんにとっても、「あの店、夜何時までだっけ」「うーん、わからん」なんて思われているよりは、「あそこは24時間ね」というふうになっているほうがわかりやすいんです。

昭和60年、当時の福井工業大学の正門前に出したお店が、福井で初めての24時間営業のお店です。

──当初から順調だったんでしょうか。

小川 昭和56年8月にお店をつくって、1日目に100万円売れて、2日目が80万円、3日目が64万円でした。4日目は50万円ぐらいかなと思ったら、8万円に落ちた。それからずっと10万円以下の日が続いて、周りからもいろいろ言われました。

何が駄目なんだろうといろいろ考えて、一番駄目なのは、コンビニについての理解とか、コンビニで買い物する文化がないことだと気づきました。それで、テレビのCMを入れたんです。とにかく突飛なものが始まったという感じを出したかったので、英語のナレーションのCMにしました。当時は夜11時までだったので、「Open till 11o’clock, everyday」とか言って。

──まさに「赤いスポーツカー」の発想ですね。

小川 そうです。それから少しずつ口コミで広がっていって、日商10万円前後だったのが、翌年の夏には30万円を超えた。半年ぐらいで売り上げ3倍くらいになったわけです。

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