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加藤誉樹:日本のバスケットボールをレフェリーとして牽引

2017/11/01

  • 加藤 誉樹(かとう たかき)

    塾員(平23環、25健マネ修)。都市銀行勤務を経て日本バスケットボール協会公認審判員として活躍。本年9月、日本初の協会公認プロレフェリーとなる。

  • インタビュアー大谷 俊郎(おおたに としろう)

    慶應義塾大学看護医療学部教授

膝のケガから審判に

──昨年始まったBリーグの初代最優秀審判賞に輝いた加藤君ですが、このほどJBA(日本バスケットボール協会)公認の日本初のプロフェッショナルレフェリーとして契約されたとのこと。これは日本のバスケットボール界にとって画期的なことだと思います。

加藤 有り難うございます。

──加藤君はバスケットボールのエリート校、福岡大学附属大濠高校から慶應に入ってきたのだけど、中学・高校時代というのはどんな感じでした?

加藤 中学校はごく普通の公立校で、もう一歩で愛知県大会に出られませんでした。大濠に入れたのは本当に幸運でしたが、入ってからはもうレベルの違いに圧倒され続けました。到底自分が及ぶようなところではなくて。

──酒井祐典(大濠から慶應で活躍)とかが同期にいるわけでしょう。

加藤 そうです。彼は本当にスター中のスターで、私は2列目とか3列目という感じのプレイヤーで、しかも当時から膝のケガは始まっていたので、プレイヤーとしてはなかなか思うように活躍できませんでした。チームとしては高校総体がベスト8で、ウインターカップは3位でしたが。

──高校のときにケガをしたの?

加藤 最初は高校のときです。ただ、そのときは、MRIなどは撮らずにだましだましというか。

──それでも大学へ入って選手でやろうと思っていたところ、ケガが悪化したということですか。

加藤 そうです。大学へ入って、どうもおかしいということでMRIを撮ったら、ACL(膝前十字靭帯)が3分の1しかなく、ついには半月板も損傷してしまったんです。

そのときちょうどチームから学連(大学バスケット連盟)に誰かを派遣しようというタイミングだったんです。私は選手を続けたかったんですが、最終的に長くバスケットに携わるには、ここで人脈をつくることもありかと考え方を変え、プレイヤーは引退しました。それで審判着を着て審判を始めました。

──ある意味人生のページが捲れたのはそこだね。

加藤 そうですね。そのときは大谷先生はまだ部長ではいらっしゃらなかったので、膝の名医の大谷先生がもし1年早く部長になっていらっしゃったら、私の膝は完治していて、今の自分はなかったかもしれない(笑)。

──ところで審判としての基礎はどこで身に付けたの?

加藤 学連の公認審判の講習会を受けました。学連に行ったら審判部の後継者がいなかったんです。そこで「大濠から慶應なら、審判できるんじゃない?」と、先輩に言われ、審判仲間に笛を借りて始めたのが大学2年の夏です。それがスタートです。

──だけど、何となく審判に興味はあったわけでしょう?

加藤 中学校のときの顧問の先生が公認審判でした。先生の車の運転席のすぐ後ろにルールブックが入っていたんです。それを移動中に見て、「バスケットにも一発退場になるディスクォリファイング・ファウルというのがあるんだ。合図って、こうやってやるんだ」と見たのを覚えています。

何となく審判の方々の立ち居振る舞いというものを見て、どういう世界だろうという興味はあったのかもしれないですね。

──今はレフェリーをやっていて膝で困ることはない?

加藤 正直、あります。レフェリーもかなりトップスピードで切り返したりするのです。それこそ、先日ヨーロッパに行ってきて、NBAのポイントガードの選手が相手のボールを奪って、速攻に行くわけですよ。

その彼を追い越して、速くラインの奥に行っていなければいけないので、体力的にかなりシビアで、膝は毎試合アイシングをきちっとしてケアをしないといけません。

今も役に立つ修士論文

──学部卒業後、就職しないでなぜ大学院(健康マネジメント研究科)へ来たのですか?

加藤 一番の理由は、学連にいてバスケットの運営を曲がりなりにもかじったわけですが、他競技に比べてまだ日の目を見ていないバスケットを、もっとポジティブな形で運営していくにはどうしたらいいのだろうという問題意識があったのです。

──大学院では私の研究室に来てくれて、戈木(さいき)クレイグヒル滋子先生に質的研究の指導を受けて、最終的には「バスケットボール審判の意思決定プロセス」をテーマに論文を書きましたね。 実は今日一番聞きたかったことの1つは、この論文を書くプロセスがその後に役に立ったかどうかなんです(笑)。

加藤 この研究をやらなかったら、たぶん今自分は国際審判やS級審判になれていないと思います。

──本当に?

加藤 本当に役に立ちました。日本のトップレフェリーの方々にインタビューして、自分なりに見つけたレフェリングの方法論は、今でもその研究結果をコート上で使えるぐらい役に立ちました。そこでのインタビュー結果からまとめたエッセンスを、今もゲーム前のミーティングでパートナーと共有して使っているんです。

今でもこの研究はやってよかったと思いますし、例えばこれをもっと一般化できたら、もっといろいろな人に還元できると思っています。

──それは嬉しいですね。そして卒業後はメガバンクに就職しましたね。メガバンクを辞めるまでの4年間、いわゆる二足のわらじで審判の仕事もしていたわけだけど、割とすぐに国際審判員にもなったよね。

加藤 社会人の2年目です。入行した年にAライセンスになり、それで翌年に、当時のAAライセンス(現Sライセンス)と国際審判員になりました。

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