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中島基晴:特産品で地域の魅力を発信する

2017/05/01

6次産業化のコーディネーター

——中島さんのお仕事は、最近よく言われる「1次産業の6次産業化」とも関わるものですね。

中島 1次産業では、いま深刻な後継者不足に悩んでいます。生産量日本一のクワイを使った「くわいぽたーじゅスープ」も、農家さんがクワイを供給してくれないと始まりません。「沼隈ぶどう」を使ったジュースも、全国でご好評いただいていますが、これもブドウ農家さんがいなかったら作れない。

ですから、「これは生産量日本一のクワイです」「これは沼隈ぶどうで作りました」といった付加価値のある商品を開発し、1次産業、2次産業、3次産業が協力しあって新たな価値を生み出していきたいと考えています。

——そのコーディネート役を務めていらっしゃる。

中島 売上が伸びれば、原材料をより高い価格で買うことができる。つまり、農家さん、漁師さんにも対価がきちっと払える。そこでまた相互利益につながりますよね。お金はもちろん必要ですが、やはり人間同士の気持ちがマッチングしていることが重要で、農家さんと膝をつき合わせて丁寧に話をするところから始まります。

農業、漁業って、生き物が相手ですから、寒かったり暑かったり1年中本当に大変な仕事です。それで収入はこれっぽっち、となると、誰も継ぎたがらないですよね。そこに、われわれみたいなコーディネーターが介在して、産品の出口を確実にキープしてあげて、生産者の方が適正な収入を得られるように、また仕事を続けられるようになればと思います。

一方で、こちらも責任を持って、商品企画や開発、販売を行っています。その意味で、生産者の方とは対等の立場であり、こちらから「しっかりとした良い原材料を作ってください」と言う必要もあるのです。

——6次産業化については、いろいろな課題も指摘されています。

中島 6次産業は1×2×3だから、すごくスピード感があると言われます。でも、毎日大変な仕事をしている1次産業の人に、スピード感を持って参加してもらうことはなかなか厳しい。だから、僕の場合は1+2+3で考えています。1次産業、2次産業、3次産業が、それぞれ対等な立場で連携し合い、役割を担っていくなかで1つの流れが生まれて、少しずつみんなが儲かる仕組みを作っていきたいと思います。

6次産業化は、出口と同じく、入口も重要で、加工品を作るにしても、原材料がないと何も始まりません。なぜその原材料が必要か、生産者にきちんと説明して、理解してもらわなければいけない。そういうコーディネート役がいま世の中で求められているし、そのスキルをもっと高めていきたいと思っています。

——生産者とのコミュニケーションには、いろいろご苦労もあると思います。

中島 農家さんですから、よそ者のアイデアは受けにくい方もいらっしゃいます。そこを、真摯な態度で思いを伝えなくてはいけない。それに、思いだけでも伝わらないんですよ。結局は実際にやってみないといけない。「すみませんが、あなたが生産されているブドウを使わせてください、きちんと責任を持って加工品を作りますから」と言って、形で示さないといけないですね。自分が売りたいから野菜を作ってくれ、果物を作ってくれ、では駄目なんです。

商社マンから義塾職員への転身

——広島大学附属福山高校から進学されましたが、慶應を選ばれた理由は何だったのでしょうか。

中島 小さい頃からずっと水泳をやっていて、高校1年生のときに群馬県のあかぎ国体に出場しました。そのときちょうど塾の体育会水泳部の方がいらしていて、「君、来ないか」と、指定校推薦のことを教えていただきました。

まだ高校1年生で、もちろん家業もありましたし、学校の先生にもなりたかったのですが、それを聞いた瞬間に、じゃあ狙おうと。当時、指定校推薦は高3の6月に校内での内定がもらえたので、夏休みは自分の好きな水泳ができる。それを目指して頑張って、ありがたいことに入れていただきました。

——大学生活はいかがでしたか。

中島 学業成績はそれなりに良かったと思います。水泳も、体育会ではなかったのですが同好会で続けました。高校の恩師に、「いい生徒を送り込んでくれたって、君、評価されているよ」と言われました。「本当かな」と思いましたが(笑)。

——ご家族にも塾出身が多いとか。

中島 妻も弟も義理の父も、そして長男が今年からお世話になっております。広島県って慶應出身者が多いんです。早稲田より慶應。特に広島県東部、福山は慶應出身者がとても多い。三田会は毎年必ず40〜50人集まります。皆さんすごく愛校心がありますね。

塾の創立150年のときは、ワンダーフォーゲル部の人が中津から三田まで歩きましたが、僕も広島県東部を何キロか一緒に歩きました。

——商学部をご卒業後、最初は商社に就職されました。

中島 うちは男3人兄弟なので、家業は誰が継いでもいいし、僕は東京へ出たかった。それで伊藤忠商事に入り、そのあと、鳥居塾長のときに慶應の職員に中途採用で入りました。異業種の同期もいて、「大学の運営に外部からの風を入れる」というので採用されたのが、1992年の4月です。

伊藤忠商事では砂糖・コーヒー部という部署で働いていたので、海外での経験や語学力も、慶應での仕事に生かせるんじゃないかと思いました。

最初に配属されたのが国際センターで、次が文書課(当時)、そのあとは教務課で学事の商学部、法学部を担当しました。学事関係の規則とか、大学運営の基本を教えていただいたことは本当に勉強になりました。

家庭の事情もあり、慶應に勤めさせていただいたのは5年ほどで、その後福山に戻ったのですが、大学運営にはいまも関心があります。経験もあるので、地元の大学へ何か貢献できたらと思っています。

——商社マンから転身されたわけですが、商社でやるべきことはもうやりきった、という感じだったんでしょうか。

中島 商社では食品原料の輸出入の基本を一から学びました。ただ、当時は慶應義塾がこれから大学改革を進めるという時期で、異業種の人でも活躍できる、といったところに興味を持ちました。ましてや母校ですから。それと、当時は職員は休みも多かったので(笑)。

——よく仕事帰りに泳ぎに行っていましたよね(笑)。職員時代に一番印象に残っているのは何ですか。

中島 やはり大学入試のイロハやその目的・大学の運営に関わらせていただいたことですね。人を採るとはどういうことかを学びました。優秀な学生を採るのは当然で、そのうえで、これから慶應義塾が持続・発展するのに貢献してくれ、同時に社会貢献もできるような学生を採るんだ、ということを、当時の上司がおっしゃっていたんです。併せて、人材こそが組織の要なんだと。

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