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笈田ヨシ:越境し続ける演劇人

2017/04/01

  • 笈田 ヨシ(本名:飯田好男(いいだ よしお))(おいだ よし)

    塾員(昭32文)。文学座を経て、パリを拠点に演出家、俳優として活躍。フランス芸術文化勲章シュヴァリエ、オフィシエ、コマンドゥールを受章。

  • インタビュアー鵜山 仁(うやま ひとし)

    演出家〔文学座所属〕・塾員

初めての日本でのオペラ演出

──ちょうど、日本で初のオペラ演出となる『蝶々夫人』が上演の運びとなったことで来日中の笈田さんにお話を伺いたいと思います。これはどういうきっかけだったのでしょうか。

笈田 中嶋彰子さんというウィーンに住んでいるオペラ歌手の方が日本で『蝶々夫人』をやるから、演出をやらないかというので、初めて日本からお座敷がかかったわけです。われわれの商売はお座敷がかからないとどうしようもない(笑)。売り込みというのはあるけれど、僕は売り込みは下手だからやったことがない。演出を始めて40年ですが、日本でのオペラは初めてです。

文化庁が国際交流の一環ということで支援していて、今回は装置、衣装、照明はドイツ人、オランダ人、フランス人で、歌い手のシャープレス役はイギリスから、ピンカートン役はイタリアから、ケイト役はNHKの朝ドラにも出ていたアメリカ人のサラ・マクドナルドさんがやっています。

海外で外国人の顔を見慣れていると、日本人が西洋人の役をやっているのがしっくり来ないので、今回は外国人の役は外国人、日本人の役は日本人でやらせてくださいと言っていろいろな国の人に集まってもらいました。

──オペラの演出は60過ぎてからですか。

笈田 65歳のときです。フランスのエクサン・プロヴァンスのオペラで演出しないかというので、小さなオペラをやりました。

その頃、ヨーロッパでは芝居の演出家がオペラの演出もやるようになってきた。だから僕も呼ばれたわけだけど、「ほかの芝居の演出家はみな歌手に無理なことをさせるけれども、おまえの演出は音楽的だ」と褒められたのです。

どうしてだろうと考えたのですが、たぶん僕が能楽をやっていたからではないかと思い当たりました。能楽というのは、歌あり、演技あり、動きあり、つまり音楽劇ですよね。だから、音楽劇の成立方法、音楽劇で歌手がどうあらねばならないかというのは能楽で知っていた。だからご好評いただいたのだろうかと。

子供の時分に能楽や歌舞伎などを見ていたのですが、その後西洋演劇に憧れて方向転換しました。でも歳をとってからまた子供時代に好きだった音楽劇に帰ってきたのでしょう。

芝居好きの少年時代

──そもそも笈田さんは何で芝居を始められたのでしょう。

笈田 もう子供の時分から好きだったからです。神戸の新開地で歌舞伎の小芝居とか文楽、剣劇とかをやっていたのを女中に連れられて、平日の昼間に行くんです。おふくろが「うちの息子、今日熱が出まして学校へ行けません」とさぼる電話をかけてくれて(笑)。

とにかく芝居が好きで、小学校1年のときに学芸会で初めてやったのが『天の岩戸開き』の天手力男命(アメノタヂカラオノミコト)の役。中学2年のときに、お年玉で坪内逍遙訳のシェイクスピア全集を買いました。そして、15、6の頃から関西のアマチュア劇団に入り、チェーホフとか、モリエールをやり始めました。

その頃初めて劇団民藝の芝居を見たら、夜の場面になると本当に暗くなって、役者の顔も見えなくなるのでびっくりしました(笑)。歌舞伎では、水といったら銀紙が垂れる、夜になっても明るいままだったので、水も本当に出てくるリアリズムの演劇に憧れるようになりました。

──狂言を始められたのはいつですか?

笈田 中学1年のときに友だちの家に狂言の先生が教えにきていらして、そこで狂言の稽古を始めたのです。

──1968年にフランスへ行かれたのは、狂言の素養があることがものを言ったんですよね。

笈田 イギリスの演出家のピーター・ブルックが『テンペスト』をやるから日本の役者を探していて、観世寿夫さんと野村万作さんを呼べないかと、仏文学者の鈴木力衛さんに依頼がありました。でも狂言師というのは1年先ぐらいの予定がもう決まっているから不可能で、当時鈴木さんが顧問を務めていた文学座からということになり、僕が選ばれたのです。

──でも、ちょうどパリ5月革命で公演が不可能になったので、いったん日本へ戻られたんですよね。

笈田 そうです。そうしたら2年後に国際グループで演劇研究をしに来ないかと呼ばれ、ブルックが新しく創った研究センターの一員としてイランやアフリカなどで即興劇をやり、世界中をどさ回りしました。

僕は文学座へ入ったときから、演出家になりたかった。ピーター・ブルックのところでも、役者として雇ってくれたから役者をやって勉強しながら、演出をやれるチャンスを狙っていたんです。

──初めてパリで笈田さんのところへ伺ったときに「甚平」のお話を伺いました。

笈田 あれは三島由紀夫さんにもらったものです。三島さんは1960年に文学座で一生に一度の新劇の演出をやったのです。それがオスカー・ワイルドの『サロメ』。ヨハネが仲谷昇で、サロメが岸田今日子、ナラボートという若き兵士役が僕でした。

衣装を見たら、ほとんど裸なんです。「先生、こんな衣装だめです。僕の胸は洗濯板ですから」と言ったら、「じゃあ俺の弟子にしてやるから来い」と言われて、三島さんにボディービルに連れていかれました。それで僕は一生懸命ボディービルをやって、たまに三島さんに会うと、筋肉をつけるためだとおっしゃって、銀座のスエヒロでステーキをごちそうになったりもしました。

その後僕がフランスへ行くときに、餞別と、「ロンドンにあってもこの甚平を着て、上方風日本精神を忘れるな」という手紙とともに、甚平を頂きました。それが70年の6月で、その年の11月にああいう事件があったので、形見のおつもりだったのでしょう。

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