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小野暢夫:京町家を再生し、歴史を引き継ぐ

2017/02/01

貴重な甲子園での経験

——現在CANPTONが再生した町家はいくつになりますか。

小野 今度西陣のほうでもオープンし4棟になりました。ここは1つの敷地の中に2棟あります。母屋のほうは最大で9名、離れのほうは5名、各々9名、5名でもお泊まり頂けますし、全体で14名という形でワンパーティーに使って頂くこともできる。このくらいの規模で丸々貸し切りの宿泊施設は珍しいので、3世代での宿泊とか重宝して頂けるのではないかと思います。2017年には御所南でさらに2棟が完成予定です。

——今後のビジョンはどう考えているのでしょう。

小野 100年残る会社をずっとつくってみたいと思っていたので、それに耐え得るような資産、キャッシュフロー、第3者の信用といったものをこれから積み上げていくということが1つの目標になるかもしれません。

長く続く会社をつくっていく上での一番大きなことは内部分裂がないことだと思っています。外圧ではたいていの会社はつぶれない。どんなに大変なことがあっても、会社の中が一致団結していれば何とか持ちこたえられると思います。だから、会社を続ける上で一番気を付けているのは、社員とのコミュニケーションです。日々声をかけたり、1つ何か仕上げたら「ありがとう」、「よくできた」とほめてあげる。

僕の下に副社長がいますが、長年僕を助けてくれている彼を社長にしてあげたい。彼にきちんと渡せるような、必要以上の苦労をさせない会社にして、社長を譲りたいと思っています。

——小野さんは学生時代は硬式野球の準体育会(体育会所属団体)パトリック倶楽部で私の2年下になります。高校時代は甲子園にも出ている。

小野 埼玉の熊谷高校2年生の夏でした。甲子園では2回戦で、後に阪神で活躍されたサウスポーの仲田幸司さんがエースだった沖縄県代表の興南高校と対戦しました。

あの試合に負けた一因は僕にあるといまでも思っています。ワンナウト・1塁、3塁で僕が3塁ランナーでした。次打者のサードゴロで、僕が犠牲になってアウトになっていれば、まだチャンスがあったかもしれないのに、そのまま3塁ベース上から動けずダブルプレーで終わってしまった。

あのときはホームに突っ込めなかったんです。3年生の先輩方とずっと楽しくやっていた野球が終わってしまうかもしれないと、あの一瞬だけは緊張して動けなくなってしまいました。

——その経験がどこかに生きているということはありますか。

小野 いま思えばですが、チャンスというのは一瞬しかないなと。だから、何かをやろうと思ったときにできるだけ躊躇はしないようにしています。

大学では野球以外のことをやりたい思いもあって、パトリックで硬式野球を楽しみつつ、準体育会の競技スキーもやっていました。またクラブ活動以外はほとんどアルバイトをしていました。アルバイトの数だけは、30種類以上やった記憶があります。

ホテルのベッドメイキングもやりました。それはいま、目茶苦茶生きています。自分で指導できますから(笑)。

——いろいろなものに挑戦したことがいまに生かされているんですね。

 今日は有り難うございました。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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