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【演説館】
武藤香織:次のパンデミックに残された倫理的課題を考える

2024/01/19

  • 武藤 香織(むとう かおり)

    東京大学医科学研究所公共政策研究分野教授・塾員

倫理的課題を残して「5類感染症」へ

私は、流行の当初から政府や東京iCDC(東京感染症対策センター)による新型コロナウイルス感染症(COVID-19)対策に関与してきた、文科系の研究者である。日ごろは、新しい医療の開発をする際の倫理的法的社会的な課題(ELSIと呼ぶ)や、患者や市民がよりよい医療をともに創るために貢献できる環境づくり(患者・市民参画と呼ぶ)を研究している。しかし、2020年2月3日の朝9時、厚生労働省から電話をいただき、COVID-19対策に関わることになった。

ウイルス学者でも医療者でもなかった私は異色の存在であったと思うし、私自身、どのようにふるまえばよいのか悩んだ。しかし、限りある人工呼吸器をどのように配分するか、感染者やその家族、医療従事者への偏見や差別の防止、リスクコミュニケーション(リスク情報の発信と受け止めた人々の声を聴く活動)などについて、政府や東京都に助言してきたつもりである。

2023年5月8日をもって、COVID-19の感染症法上の位置づけが「新型インフルエンザ等感染症」から「5類感染症」に変更された。この変化が意味するものは、①政府として一律に日常における基本的感染対策を求めることはなくなる、②感染症法に基づく、新型コロナ陽性者及び濃厚接触者の外出自粛の要請はなくなる、③幅広い医療機関で受診可能になる、④医療費等に健康保険が適用され、1割から3割の自己負担が基本だが、一定期間は公費支援が継続されることだ(厚生労働省ウェブサイト「新型コロナウイルス感染症の5類感染症移行後の対応について」より)。ワクチン接種については、今年度末までは費用の自己負担なしで接種できるが、やがて他のワクチンと同じように自己負担を求められるだろう。すでに政府対策本部は解散し、多くの対策も終了している。もっとも他の先進国と比べると、約1年程度は遅い、慎重な対策の緩和であった。

しかしながら、「5類感染症」は感染症法上の整理を超えた表象となっていた。「5類感染症」になったとたん、約3年半の間、社会の隅々に広がっていたパンデミック警戒体制モードが一斉に解かれた。そのなかには、何もわからなかったパンデミック当初に、可能な限りの手立てを講ずるという観点から専門家が推奨したが、経過とともに必要がなくなった自粛や対策なども含まれていた。効果のない対策やむしろ長期的な害が懸念される自粛を一斉にやめるためには、「5類感染症」という記号がちょうどよかったということなのだろう。

もっとも、「5類感染症」となっても、ウイルスや病気がなくなるわけではない。だが、多くの人々が、もうあの3年半を思い出したくない、忘れたいという気持ちにかられている。そのため、このまま次のパンデミックに突入したらどうしようという心配事がある。それは、次のパンデミックに向けた倫理的な課題がほとんど考慮されていないからである。本稿では、ぜひ我が事として考えていただきたい、3つの心配事を挙げておきたい。

限りある医療資源を誰から配分するか

他の先進国では、インフルエンザになったら自宅で寝ているのが基本であるのに対して、日本は、インフルエンザにかかれば、すぐにどこの診療所でも受診できて、抗インフルエンザ治療薬が処方されるという、先進国では稀な診療体制をもっていた。そのため、人々にとって、それまで当たり前だった受診が抑制されるという事態に対する耐性はなかったし、メディアからの批判も強かった。政府も明確に優先順位付けの必要性を宣言しなかった。

しかし、急激な患者数の増加に際して、医療提供体制が逼迫する可能性がある場合、誰から優先的に診療するかについては、順位付けを行わざるを得ない。政府がその必要性と協力を市民に求めなかった結果、各地域に、あるいは個々の医療機関に判断が任せられてしまった。もちろん、最終的な裁量は医療機関側に任されるべきだろう。しかし、国から基本的な考え方が明示されなかったので、地域によって優先すべき患者像が異なっていた。ある地域では、独居で呼吸苦のある高齢者の受診が優先された一方、ある地域では、患者の年齢や要介護度によっては優先順位が下がっていたという実態がある。

さらに、重症の患者が一度に多数発生した場合には、集中治療提供体制が制限され、誰から救命するかを決めざるを得ない。救命率が高い人から装着するのか、救急車が到着した順とするのか、後着した患者の救命率が高い場合にはすでに人工呼吸器を装着している人から装置を外すのかなど、さまざまな議論がありうる。こうした判断を過酷な環境に置かれた医療従事者に任せることは、患者や家族にとって不公平感を生みかねないうえ、医療従事者にとっても大きな負担となる。

厚生労働省が推奨する「人生会議」(アドバンス・ケア・プランニング:ACP)とは、「もしものときのために、あなたが望む医療やケアについて前もって考え、家族等や医療・ケアチームと繰り返し話し合い、共有する取組のこと」である。私たちは、いつどこでどのように体調不良となり、生死の境をさまようのかわからない一方、医療資源には限りがある。さまざまなことを経験した今、次のパンデミックのことも考えて、近しい人々との間で意見交換しておく必要があるのではないだろうか。そのことは、日本の医療体制を助けることにもつながる。

漫然と持続する面会制限

2つ目の課題は、医療機関や施設での面会制限である。今も続いているところがあるだろう。もう以前のようには戻らないのかもしれないという危惧も抱かせる。面会制限は、2020年4月当初、国の基本的対処方針に書き込まれていたが、2021年1月に「患者・家族のQOL」を考慮することが追記され、2022年11月に対面での面会をすることへの考慮に変更となった。現在は、個々の医療機関や施設の判断に委ねられた状態にある。医療機関や施設での面会制限が支持される理由として、①入院患者を含めた院内感染予防の必要性、②面会調整に関する医療者への負担の観点、③感染管理が困難なウイルスの性格、④国民への公平性の観点などが挙げられている。だが、①面会しないと得られないものがあるという観点、②医療・ケア提供における家族の重要性、③硬直した対応への懸念を考慮すると、深刻な倫理的ジレンマであると言える(田中雅之(2022))。特に重い障害をもつ人をケアする家族にとっての面会制限は、当事者だけでなく家族の生活の質の大幅な下落を意味する。「こんな時だから仕方がない」という思考停止と1人1人の苦しみへの無関心が漫然とした面会制限を持続させているのかもしれない(児玉真美(2023))。

そもそも日本で入院入所者への面会が本人の権利として確立していないために、ジレンマ状態の解消が個々の医療機関や施設に委ねられた状態にあると考えられる。その状態が続くことは望ましくなく、どこかで政府による実態調査や方針の提示が必要なのではないだろうか。そして、私たちも、仕方がなかったと思うだけでなく、もっと怒ってもよいと考える。

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