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【講演録】福澤諭吉の智徳論──J・S・ミルとの関連を中心に

2026/03/19

智恵と徳義の違い

日本で徳義というと個人の私徳で内に存する、パッシブ(受け身)の人物に備わっているものと福澤はみなします。またミルも言っていますように、一般論としてもキリスト教道徳における受動的服従の教説、積極的よりも消極的ということで、道徳学者や人間の一般的同感はパッシブであるほうが受け入れやすい。

しかしながら福澤は、聡明叡智の働きはアクティブではないと駄目だと主張します。特に学ぶ人間はアクティブでないと駄目だと福澤はミルの『功利主義論』の1節にノートしております。あるいは福澤はチェンバースのPolitical Economy を最初に訳していますが、そこでもアクティブの意味を学んでいます。

バックルではありませんが、徳義は古より変化しない、進歩もしない。それは十戒五倫、モーセの十戒やキリスト教道徳も論語における五倫をと比較して福澤はそれをうけて言っております。

ところが智恵というものは「一度び物理を発明してこれを人に告れば、忽ち一国の人心を動かし、或はその発明の大なるに至ては、一人の力、よく全世界の面を一変することあり」(巻之3 第6章)であります。私徳の功能は狭く、智恵の働きは広いのだと。「徳義は智恵の働に従て、その領分を弘めその光を発するものなり」というようなことを主張するわけです。

徳義は情愛であって規則ではありません。ところが智恵には規則の問題が出てきます。それは事物の順序を整理する目的で、人の誤りを前提にして人の悪を防ぐ目的、人の悪い心をコントロールするには、やはり規則が必要で、それが智恵の問題であると。

ただし、やはり福澤は両眼主義を持っていますから、完全に私徳を無視してはいません。同じ頃に書いた『学問のすゝめ』に「智徳事業の棚卸」(14編)と、非常に面白い使い方をしている一文があります。それから「経済の公論に酔て仁恵の私徳を忘るゝ勿れ」(同編)と。私徳を忘れてはいけませんよということです。だから確かに智徳の力は計算可能性では測りきれないものだが、しかしながら智徳事業の棚卸をしてみるとよいと。1年間に私はこういうことをしたと、それは智恵の問題も含めてであります。

ミルは快は質の問題であると言いました。また、計算可能性は果たして本当に可能なのかという問題でもあります。ベンサムは「最大多数の最大幸福」で計算可能性を前面に打ち出します。確かに福澤は智徳の力は権衡度量では計れないけれども、筋骨の力と同じで、計れないことはないと、理由を付けて棚卸を説いております。

私徳を忘れたらどういうことになるのか、というと儒学にも「修身斉家治国平天下」の中で「治国平天下」を重視する学問が日本にもありました。それは徂徠学です。徂徠学というのは天下国家のことばかり論じて私徳論については無視する。松平定信はそれでは駄目だということで、寛政異学の禁で正学として朱子学を重んじることにしました。徂徠学は倫理と区別された政治の固有性を主張し、政教一致のモラリズムを批判したのです。丸山眞男が戦時中に政教一致のモラリズム批判を念頭において徂徠学の意義を説く助手論文を書いたのも、福澤の問題意識があったと思います。

ただ、棚卸によって誤りを正すことができるのは、ミルが強調します知的存在としての人間の尊厳の問題です。人 間は万物の霊と言われるように、自分の誤りに気付いて訂正することができる。そこが重要です。そういった点も含めて智徳事業の棚卸と福澤は言っていると思います。

徳の両義性

徳の両義性について少し触れておきます。それはmoralとvirtue の違いの問題です。両方とも同じ徳と言っている場合もありますが、どうもミルは言うまでもなく福澤も両者の意味合いの違いは知っていたようです。moral はmores(モーレス)で、要するに風俗、風習を語源としてもっております。この当時よくmoral science が使われますが、この語には「社会科学」の意味も含まれます。一方、virtue は個人的勇猛性に由来します。政治的共同体に参加する道徳という意味でvirtue は使われています。

福澤の『文明論之概略』の草稿では「passive virtue」と言っていますから、そこでmorality を使わなかったのは、恐らくvirtue の考え方に福澤は気付いていたと思われます。そういうことで人間の個人的資質である尊厳さを考える場合にはvirtue を使うというわけです。そうして誤りを正すことができる存在も徳であると。

高尚の精神を目指すということ

結びになりますが、智徳兼備への絶えざる研鑽は福澤にとって文明の要であるということです。すなわち「智を研き徳を脩(おさ)めて人間高尚の地位に昇る」ということです。これはミルの自由論にもその精神がありますし、それを福澤は非常に重んじています。人間は高尚でなければならないというのです。

高尚とは何ぞやということですが、福澤はミル『功利主義論』の書き込みに、「ノーブルフㇶーリング」と書き込みました。福澤の思想が最もよく出ているのはこのノーブルフㇶーリングではないのかと私は思っております。以下がその書き込みです。

「ノーブルフㇶーリングは若き草木の如し 社会中に交わる己が地位の有様に由て容易に消滅す可し 今の少年が妻を娶り官員に為りて後に気力を失ふが如し されども中心に勘弁して賤しき快楽を悦て尚高の気風を投棄せんと欲する者はある可からず 必ず心の内には一点の廉恥存するものあり 旧友が折々尋問に来り或は近辺に居を移さんとする抔 再ひ近かんとするが如きは即ちノーブルフㇶーリングの未た全く枯死せさる者なり 蓋し人に交るの要は此のフㇶーリングを勉めて養成すに在り」

ノーブルフㇶーリング、すなわち高尚の精神は若い草木と同じで、社会的地位によって容易く消える。しかしよく考えると全く枯れはててしまわない。人と交際すればノーブルフㇶーリングが覚醒する。だからそれを勉めて養うには人が人として付き合う必要がある、と言うのです。このミルの『功利主義論』への書き込みは、私の『福澤諭吉の思想的源泉』の表紙カバーにも使わせてもらっておりますが、これは福澤のミルに対する、あるいは福澤の考えを非常によく表しているように思います。質的快楽の問題でもあります。快楽は質の問題である、これも福澤の念頭にはありました。同時に福澤には『論語』冒頭部にあります、学び合った友達が遠きを厭わないで会いに来てくれる。楽しいことではないか。人に知られなくても腹を立てることなく語り合う。「亦君子ならずや」。英訳者は「true gentleman」と訳しております。真の紳士はノーブルフㇶーリングの持ち主であります。福澤の『論語』解釈は難しい問題ですが、これはわかりやすい例と思います。

学んだことを振り返り、同窓の仲間たち、あるいはかつて一緒に学んだ人間と時々会って高尚の精神、ノーブルフㇶーリングを確認し合う。そういったものが重要であると。お互いが同窓であった人間たち、あるいは共に学んだ人間たちと会って、ノーブルフㇶーリングを改めて養成することが重要である。それが社交だと。社交の必要性を福澤はよく言いますが、これもその一環です。

『学問のすゝめ』の最終章である17編にも「人にして人を毛嫌いする勿(なか)れ」とあります。どんな人間でも、やはり自分が高尚でありたいというものは持っているから付き合いなさいと言っていると解釈できます。高尚に到るには確かに努力が必要かもしれません。現在は努力して高尚になるのは、ちょっとダサいのではないかという感覚があるかもしれませんけれど、福澤は人間世界はレベルアップしないと駄目だと繰り返し主張します。それは学校であってもそうです。どこにあってもレベルアップが必要だと。ノーブルフㇶーリングは貴族的精神と訳す場合もありますが、つまりあらゆる分野においてレベルアップする必要があると言っているのです。

人間交際は、そういう意味で必要であると。ギゾーやミルもそれを強調しています。だから福澤も、それを大いに学んで、強調しているということです。

塾長の話にもありましたが、現在、『文明論之概略』を読むということは特に昨今の国際情勢を見ると、ますます重要になっていると思います。そこで道理とは何なのか。国際的に通用する道理は何なのかを考えてほしいということです。ディールによって国益を追求するのもいいけれど、しかし、それは道理にかなっているであろうか。そういうことを考えないと、まさに弱肉強食の世界になってしまいます。そうならないためにも『文明論之概略』は大いに学ぶところがあると思います。

ご清聴どうも有り難うございました

(本稿は2026年1月10日に行われた第191回福澤先生誕生記念会での記念講演をもとに構成したものです。福澤諭吉の原文は『福澤諭吉著作集』(慶應義塾大学出版会)に依った。)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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