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【講演録】福澤諭吉『民情一新』と「文明の利器」

2025/03/11

文明の利器についての考え方

19世紀の文明の利器について、もう少し具体的に話をしますと、蒸気船車、電信の発明と、郵便、印刷の工夫とがありますが、蒸気船、鉄道は海陸の交通輸送手段、そして電信、郵便、印刷は、情報通信の手段です。福澤先生はこれをともに「思想通達」の利器であると言っています。郵便も、新聞も雑誌も、蒸気船や鉄道によって運ばれていくという意味で、それも含めて「思想通達」の利器であるという。公共財としてのインフラの重要性を非常に強調しています。

ただし、蒸気船は沿岸部だけにしか効果を及ぼさないのに対して、鉄道は内陸のあまねくところに効果をもたらすので、福澤先生は船よりも鉄道を敷設することが重要だと考えていました。この頃の明治政府はまだ財政的な問題もあり、全国には鉄道が敷設されていませんでした。そういうことについて非常に不満を持っていたと思います。

電信に関して言えば、日本の場合、特に西南戦争を機に、1870年代には全国的な電信のネットワークができました。電信は「国の神経」であり、そして「全世界を縮小」するものだと、その役割を非常に高く評価しています。郵便、印刷に関しても、「これは人の聞見を博くするがために最も有力にして、その働きの最も広大なるもの」であって、特に新聞はいわゆる「人間交際(じんかんこうさい)の一法」であると言っています。

たしかにこの時代には、例えば東京では、「東京日日新聞」、「郵便報知新聞」、「朝野新聞」、地方でも「大阪日報」や「横浜毎日新聞」など、1878年度には全国で178紙が発行され、発行部数も急増していました。こういうインフォメーション・ツールとしての新聞や雑誌の力について、福澤先生は強く実感していたと思います。このように『民情一新』が書かれた背景には、郵便や電信の全国的なネットワークができ、急速に日本が近代化している状況がありました。そのためにやはり文明論について、あらためて考え直さなければいけなくなったのだろうと思うわけです。

福澤先生は、生きているうちに「日本に於て電信の実物を見んなどとは、夢にも想像せざりしこと」とも言っています。福澤先生はヨーロッパで電信や新聞などを実際に見てきたわけですが、『西洋事情』で描いた世界が、急速に明治日本の現実になっていたわけです。「人事の進歩、実に驚くに堪へたり。既往斯くの如し、将来推して知るべし」。「結局、わが社会は今後この利器とともになお動いて進むもの」であるとして、こうした情報環境が急速に変わっていくなかで、日本の将来は非常に明るいと期待しています。

「インフヲルメーション」という言葉

もう1つ、ここでふれておかなければならないのは、「智徳」に関してです。『文明論之概略』で、文明には「智徳」ともに必要であるが、「徳義は一心の工夫によって進退するもの」で、「教え難くまた学びがたい」ものとされています。それに対して、「智恵は学びて進むべし。学ばざれば進むべからざるもの」で、「人の智恵はただ教えにあるのみ。これを教えればその進むこともまた際限あるべからず」と、智恵と教育の重要性が強調されています。『文明論之概略』では、「智とは事物を考え、事物を解し、事物を合点する働きなり」として、英語の「インテレクト(知性)」という言葉であると言っています。

それが『民情一新』では、「智とは必ずしも事物の理を考へて工夫するの義のみに非ず、聞見を博くして事物の有様を知ると云ふ意味にも取るべし。即ち英語にて云へば「インフヲルメーション」の義に解して可ならん」と変わってきます。個人のレベルの「インテレクト」という意味から、もっと社会的な広義の「インフォメーション」に変わってきている。「インフォメーション」という言葉自体、19世紀後半には意味がかなり変わり、今でいう「情報」に近くなってきたと言われていますが、文明の利器は、智恵をもって初めて達することができる、「智恵」こそが「文明の精神」であるとされています。

教育によってこのように非可逆的な智恵は蓄積されていき、一度蓄積されれば元に戻ることはない。そういう意味で、『民情一新』では智恵の重要性が指摘されていて、智恵を媒介として、科学技術の発明工夫こそが智恵の結晶なんだという結論に至っています。他方で、徳については『民情一新』ではふれられていません。

科学技術の発展が及ぼす民情の変化

それでは科学技術の発展の結果、社会はどうなるのか。西洋では、自ら発明した技術革新にともなって、民情の変化が生じているわけですが、それに対応することができずに社会は行き詰まり、「驚駭狼狽の世の中」になっている。それは例えば、ロシアの社会党やニヒリズム、イギリスのチャーチズムや社会主義。保守的な政府と進取的な人民との間の対立が非常に激化していると。こういうなかで、日本は、こうした文明の利器から離れて展望することはできないし、進んでいかなければならないと言われます。

この文明自体は、民情を一新するだけでなく、「あたかも人間世界を転覆」するまでに至っている。政府も人民もともに狼狽している。日本はこれまで「西洋を盲信」し、「西洋を基準」にしてきましたが、「今日の西洋諸国は正に狼狽して方向に迷う者なり。他の狼狽する者を将て以て我方向の標準に供するは、狼狽の最も甚しき者に非ずや」。もはや西洋を標準とするには及ばないと言う。西洋的な基準から脱却し、日本は「脱欧」して、新たな道を歩まなければならない、独自の道を模索しなければならない。こういう意味で、『民情一新』での議論は日本の思想的、文明的な自立の必要性を強調しているのではないかと思います。

こうした背景には、福澤先生の明治政府に対する考え方が大きく変わったことがあります。明治政府が成立した頃は鎖国攘夷主義とみなして、政府の開明的な政策をまったく評価しなかったのですが、版籍奉還、地租改正、秩禄処分などの一連の改革で、福澤先生が「親の仇」とみなしていた封建的な門閥制度はかなり解体されていったわけです。そういうことから明治政府に対して、かなり評価を転換しているところがあります。

その改革に対して国内では、不平士族の反乱や自由民権運動などが高揚してくる。福澤先生が非常に危惧したのは、不平士族あるいは自由民権派が、連合して政府と対立するのではないかということです。こういう政府と人民の対立により、政府はますます専制化し、明治政府が倒れてしまうのではないかと非常に危惧していたと思います。

そうした危機感を背景にして、『民情一新』の最後の章に国会開設の必要性を書かれているのではないか。そうした社会の狼狽の状況を前提にして、明治政府の改革の方向性を挫折させないために、国会の開設は不可避になるわけですが、そういうなかで日本が取るべき最善の選択肢が、イギリス式の議院内閣制を導入することだと、福澤先生は考えたのではないかと思います。

このように『民情一新』は、科学技術の発展を新たに組み込んだ社会文明論であり、科学技術の発展がいかに人間の政治や経済や社会に大きな影響を及ぼして、社会に狼狽をもたらしているかという現状を認識し、人間による制御が不可能になってしまうような文明社会の未来像を予知し、警鐘を鳴らしているのではないかと思われます。これ以降、福澤先生の文明論が変わることはありませんでしたし、1880年代以降のいわゆる後期福澤は、この延長線にあり、基本的な視座はこの『民情一新』で完成していると考えられます。そういう意味で『民情一新』は、福澤先生の思想においても文明論の転換点=到達点であると同時に、後期福澤への出発点となる記念碑的な著作であったのではないかと思います。

今に生きる『民情一新』の思想

最後に、福澤先生が今の情報化社会に生きていたらどうだったのだろうかについて考えてみたいと思います。19世紀の「交通・通信革命」の時代を的確に認識していた思想家は、日本においては福澤先生だけでしたが、世界においてもおそらく他にはいなかったのではないかと思います。今日お話しした文明の利器を、現代のITやインターネット、生成AIに置き換えても、十分に通用します。福澤先生が今生きておられたら、ホームページを日夜更新し、YouTubeやSNSなどあらゆる媒体を通じて発信していたのではないかと思います。

ご記憶にある方もいらっしゃると思いますが、日本では2001年、もう四半世紀前ですが、e-ジャパン構想というものがありました。それから、20数年経ちますが、日本のデジタル化は遅々として進んでいません。すでに日本はデジタル後進国になっていて、デジタル化、キャッシュレス化がいかに遅れているかは、海外を経験された方ならすぐわかると思います。実際に2023年のデジタル貿易の赤字は5兆3000億円。モノの貿易収支の赤字が6兆5000億円ですから、それに匹敵するデジタル赤字を日本は計上しているわけです。こういう状況を見て、一番歯がゆく思っているのは福澤先生ではないかと思います。

また、福澤先生のような非常に広いトピックについて膨大な著作を残した思想家の研究は、生成AIなどの助けを借りてもいいのではないか。1人の個人の研究者のレベルでは到底太刀打ちできない研究対象なので、アナログ的な人文系のアプローチでは難しいのではないかと思います。いずれにしても、未来に向けた知的な環境を作っていくことこそが、福澤先生がもっとも望まれていることなのではないかと思います。

今日はご清聴有り難うございました。

(本稿は、2025年1月10日に行われた第190回福澤先生誕生記念会での記念講演をもとに構成したものです。)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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