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【Column】司馬遼太郎が評した福澤諭吉──大阪における損切り力
2023/12/20
生誕100年を迎えた作家司馬遼太郎(1923~96)は、東大阪市に居を構え、『翔ぶが如く』『花神』などといった豊かな物語性を含む歴史小説群や、『街道をゆく』『この国のかたち』などの紀行・エッセイを執筆発信し続けた。
「国民的作家」と評価される場合もある司馬に関する興味深い記事が、本年4月刊行の『三田評論』1276号誌上に掲載されている。「三人閑談 司馬遼太郎生誕100年」である。この記事は、政治思想史が専門で音楽評論家としても著名な慶大教授の片山杜秀さんが、大石裕氏(十文字学園女子大学特別招聘教授、慶應義塾大学名誉教授)ならびに福間良明氏(立命館大学教授)と一緒に、司馬を多角的に論じ合ったものだ。
記事によると大石氏が「司馬遼太郎は福澤諭吉については、例えば緒方洪庵について書く中では触れますが、正面切って論じなかった。なぜなんですかね」と問う。それに対して片山さんは、こう応える。
「たぶん司馬好みの人ではなかったのだろうと思いますね。福澤諭吉がもっと早く死んでいたら書いたと思いますよ。慶應義塾をつくって、バーンと構えて大御所として、当時としてはそれなりに長生きした。(中略)高杉晋作みたいにロマンいっぱいのうちに死ぬのではなく、ドンみたいになってしまっている。そういう人は興味がないんですね」。片山さんらしい語り口が、実に面白い。そのうえで、果たして司馬は、片山さんが言うように福澤諭吉に興味がなかったのだろうか。筆者の答えは「ノー」である。
確かに司馬は、主人公として福澤を小説で書かなかった。しかし、小著『生誕100年 司馬遼太郎への手紙─学都・大阪の再発見─』(ドニエプル出版、2023年刊)で論じたように、司馬は、しばしば福澤について講演で好意的に語っている。例えば、1988年1月28日に神奈川県立青少年センターにて行った講演で、次のように断言する。「私は福澤諭吉が好きです。この人は非常にわかりやすい文章を書きました。(中略)つねづね諭吉は『おれの書く文章は猿が読んでもわかるんだ』と言っていたぐらいです。文章ひとつとっても、諭吉はすばらしい啓蒙主義者でした」と。
また、司馬は1984年11月12日の神戸市勤労会館で行った講演「孫文の日本への決別」の冒頭で次のように語る。「孫文先生についてお話しする前に、福澤諭吉の話をします。私は福澤諭吉が好きなんですが、彼にはちょっと理解できない部分があります。普通の人よりも、いっぷう飛び離れた部分があり、その部分は乾いている。ドライな人であります」と。司馬が言う「ドライな人」とは、おそらく論理的で合理的精神の持ち主という意味である。そんな福澤は、関西と非常に大きな縁を持つ。
第1に、福澤の生誕地は大坂だ。父親が中津奥平家(現、大分県中津市にあった大名家)の家臣として、同家の大坂蔵屋敷へ家族と共に赴任。その後、福澤は大坂で生まれた。第2は、蘭学者の緒方洪庵によって大坂で開かれた適塾が、福澤の母校だ。したがって、福澤は青春時代を幕末の大坂で過ごした。第3に特筆したいことは、明治維新後の福澤が、関西の各地で教育事業を興した史実だ。和歌山・大阪・京都・徳島などにおいてである。
福澤諭吉は今風に言うと、ベンチャーとしての顔を持つ、まさに起業家である。慶應義塾という私立学校を江戸(東京)に創り、時事新報(日刊新聞社)や交詢社(社交倶楽部)などの事業を興したからだ。と同時に、福澤は『西洋事情』や『文明論之概略』など多数の著作を残した、一流のジャーナリストであったことを忘れてはならない。
さて、1873年11月に福澤は大阪慶應義塾という一手を打った。東京の慶應義塾の分校を、大阪で起業したのである。当時、東京の慶應義塾で教員をしていた荘田平五郎(後に三菱財閥経営者へ転身)が、大阪でも義塾流の教育ニーズがあり繁盛するだろう、と提言したからだ。
福澤も東京と同様に大阪でも、慶應義塾が繁盛すると考えていたようだ。というのも、当時の大阪では適塾や懐徳堂という有名な近世私塾・学問所が衰退し、開校したばかりの集成学校(大阪府立北野高校の前身)も非常に小規模な学舎だったからだ。つまり、競合校が少ないので勝算が見込めた。
福澤は大阪府権知事であった渡辺昇へ設立願書を提出し、心斎橋筋の民家を借りて大阪慶應義塾を開く。「大阪慶應義塾開業報告」によれば、義塾では「英書、訳書、洋算、和算」の4教科が教示された。入学金は3円で、履修科目別に授業料は定められており、例えば「英書」の月謝75銭という具合だ。なお、教員は東京の慶應義塾から派遣された。
しかし、福澤の目算通りに事は運ばない。生徒が思うように集まらないのだ。大阪慶應義塾の失敗を悟った福澤は、1875年6月に早くも大阪撤退を決意し、義塾を閉じる。すばやい損切り力を福澤は発揮したのである。この経営判断を見る限り、合理的精神の持ち主という意味で、福澤はやはり「ドライな人」だ。
大阪慶應義塾のランニングコストに見合う収入(授業料や寄付金など)が、見込めそうにない。ならば、じたばたと大阪で生徒募集のための広報なんかに注力するよりも、大阪から迅速に撤退して全く違う別の一手を模索する、という生き方を選んだ福澤諭吉。この損切り力こそ、幕末維新をしたたかに生き抜いた福澤の魅力の1つであり、変革期を迎えた現代の教育関係者、特に私学の経営者はそこから学ぶべきだ。
それにしても、なぜ大阪で慶應義塾は失敗したのか。不振原因に関する通説とは違う仮説について、前掲の小著にて論じたので、御笑覧下さると幸いである。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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