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【慶應義塾高校野球部甲子園出場】〈特別記事〉きみは慶應二高を知っているか――野球部を軸に巡る慶應高校誕生の頃の物語

2023/05/09

7. 幻の甲子園~アピールプレーあるいは突然の没収試合

1949年、3年連続夏の甲子園、3季連続の甲子園出場を成し遂げた慶應の快進撃は止まらない。慶應は同年秋季都大会でも2年連続の優勝を果たし、翌50年のセンバツ連続出場、4季連続の甲子園出場を確実なものにした。ところが、10月に校舎が日吉に移ったことにより、「慶應は神奈川所属で、東京代表の資格はない」と異議が申し立てられた。抗議は認められ、甲子園出場は幻と消えた。まるでアピールプレーによるゲームセット、いや突然の没収試合と言ったほうが正しいか。50年後、2回生川上浩司は『私達の野球青春』において無念をこう漏らしている。「特殊な事情で出場権を奪われたことの悔しさは終生忘れ得ないものとなった」と。「大人の事情」で夢の甲子園出場機会を奪われた部員たちの落胆は言葉にできない。

8. 嵐が丘球場〜「もう1つの教室」

神奈川県移転以降、最初の甲子園出場は4年後の1953年35回夏の大会であった。好投手・田原藤太郎(後に中日)を擁する北海高校に無安打ながら2-0で勝利した。一方、慶應・川本良樹投手も相手を1安打完封。高校野球史上最少の両チーム合わせて1安打の珍記録の試合として熱心な高校野球ファンの記憶に留められている。

4年は決して短い時間ではない。その間に塾高では様々なことがあったが、野球部として特筆すべきは51年に現在理工学部がある矢上に(今は無き)嵐が丘球場が竣工したことだろう。

嵐が丘球場(1960年、加藤太郎日吉倶楽部元会長提供)

戦前より野球部には綱町グラウンドがあったものの、自由に練習することはできなかった。そのため放課後に道具を抱え、電車に乗って、明治生命グラウンドのある高井戸、朝日生命の久我山などに出向いて練習していた。

その状況を見かねた高橋輝夫監督、長尾部長らの熱心な嘆願活動が実り、ようやく塾当局から矢上の使用許可がおりた。貴重なブルドーザーを借り受け、一気に造成、嵐が丘球場が誕生した。ただ、グラウンドはまだ石ころだらけで、イレギュラー・バウンドが多く、ノックを受けるときには恐怖心で足がすくんだ。それでも念願の専用球場を手にした部員たちは大いに喜び、練習に励んだ。そして教室では学べない多くのことをこの「もう1つの教室」で学んだ。

その嵐が丘球場にまつわる話であるが、5回生薄好勇(うすきよしお)によれば、1952年、当球場で非公式ながら米兵達と試合をしたという。スコアは憶えていない。勝ったかもしれない。ただ、弾む黒い肉体、巨大な身体と桁違いのパワー、そして底抜けの明るさに圧倒された。「彼らと戦争をしたんだ」と溜息が漏れた。返還から3年、終戦からすでに7年以上が過ぎた後も、米軍は日吉近隣から完全に撤収していなかった。

9. 若き血に燃ゆる者~「KEIO日本一」の起源の発見

日々、塾高生たちは勉学に、練習に、と青春を送っていた。文連とて負けてはいない。2回生安東伸介(後に文学部教授)は「新しい高等学校は僕ら自身で創り上げるのだ、僕らの行為が1つ1つ慶應高校の先例となるのだ」(『十年』114頁)と撥剌と語っている。戦後の混沌とした環境にありながら、文連も体連も「若き血」に燃えていた。

他方、この頃、教員のなかで「日本一」という言葉がたびたび聞かれた。初代校長寺尾琢磨は塾高10周年でこう語っている。「最善の高校とは何かはむずかしい問題で、容易に判定しがたいことは言うまでもないが、(中略)今日の日吉高校がたとえ日本一の高校といえないにしても少なくともその1つであることは確かである」(同書 14~5頁)。

今の日吉台球場のように「KEIO日本一」の横断幕を掲げることはしていなかったが、風に鳴る我らが三色旗を眺めながら、開校当時、校長をはじめ、教師・職員も日本一を目指していた。

「KEIO 日本一」の横断幕を背にした慶應高校野球部(2017年)

慶應高校のシンボル・威風堂々とした白亜の日吉第一校舎。曾禰中條建築事務所、網戸武夫設計のクラシックとモダンが融合する我らが学び舎。戦後の混乱期のなか、その内側はもちろん、向こう側にも青春を生きる高校生たちや奮闘する教職員の姿、そして復興に向けて力強く前進する日本社会が透けて見える。

慶應二高の問題を辿ることで、当時の塾高の様子や戦後社会の世相を探る試みは、じつに興味深く有意義であった。ホームに戻るゲームである野球はノスタルジーと相性が良い。

今年、慶應高校は開設75年を迎えたが、開設10周年は奇しくも慶應義塾創設100周年であった。

確かに慶應高校は戦後に生まれた新制高校であるが、野球部を軸に歴史を辿れば少なくとも普通部が旧制中学校になった1898年まで遡れることを本稿において確認した。そして、かつて石川忠雄元塾長が語ったように大学も、塾高も、「福澤先生を共に創設者として仰ぎ、『慶應義塾の目的』で明らかにされている理念に基づく一貫性を持った共同体」(『同窓会会報 第2回総会特集号2頁』)である。つまり、慶應義塾においては、慶應大学はもとより、塾高も普通部も、その他の一貫教育校もそれぞれが独自のアイデンティティと個別のミッションを持った「慶應義塾」の一部なのである。

結びに、寺尾校長の言葉を再度引用して「物語」の頁を閉じたい。「新しくてしかも旧く、旧くてしかも新しい。これが(慶應)義塾高校の姿といえよう」。

けだし至言である。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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