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【慶應義塾高校野球部甲子園出場】〈特別記事〉きみは慶應二高を知っているか――野球部を軸に巡る慶應高校誕生の頃の物語
2023/05/09
「きみは慶應二高を知っているか」。この問いに対して、「YES」と答えるならば、あなたは慶應に詳しい歴史マニアであるか、よほどの高校野球ファンにちがいない。
慶應義塾第二高等学校は戦後の学制改革に伴い、1948(昭和23)年4月から49年3月まで1年間だけ「存在」した高校で、第21回センバツ甲子園に出場した。だが、その存在を知る者は当時ですら少なかった。あれから75年を経た今日、その謎に迫ることで当時の野球部や学校の在りようを探ってみたい。
1. 慶應義塾の新制高校開設~三ノ橋仮校舎(日吉じゃないの?)
1947年に公布された学校教育法に基づく学制改革により、慶應義塾においても新制高等学校の開設が決定。12月に準備委員会が設置された。委員長に経済学部教授の寺尾琢磨、委員に大学予科教授の一ノ瀬恒夫と予科庶務課長太田富作が任命された(開校後、3人は校長、主事、事務長となる)。
塾当局は翌年4月の開校から、慶應義塾(旧制)普通部、慶應義塾商工学校(1905〜49)、慶應義塾工業学校(1944〜49)の卒業生と外部からの2年編入生と1年入学生を収容(学年調整のため3年は空席)して、日本一の大規模校をめざすが、定員数の許認可の問題で、事務手続き上、慶應義塾第一高等学校と第二高等学校とに分けて開設した。
校舎は東京都港区麻布の三ノ橋、中央労働学園専門学校に間借りした。被災した三田に余裕はなく、日吉もGHQ(連合国軍総司令部)に接収されていた。
その仮校舎は汚れて薄暗く、鉄工場の騒音の隣りにあった。一ノ瀬は「およそあれほど汚い建物があるかというようなサンプルのような汚い建物」だったと回想している(『十年』87頁)。
2. 1948年夏の甲子園~アウトではないか?
終戦直後の慶應野球部は黄金期と呼ぶにふさわしい。全国中等学校野球優勝大会(夏の甲子園)再開直後の1946年こそ甲子園を逃したが、47年春には普通部、商工が揃ってセンバツに出場した。この開会式にはGHQ最高司令官D・マッカーサーの側近、W・マーカット経済科学局長が祝辞を寄せている。武道が軍国精神に結びつくと弾圧される中、戦中と反対に、アメリカ国技の野球はGHQから優遇された。そして同年夏には商工が2季連続の甲子園出場。さらに新制高校となった48年夏、慶應高校野球部は新制高校としては初めて、慶應としては12回目の夏の甲子園の土を踏んだ。
だが、ここに問題となる種が潜んでいた。お気づきになっただろうか。48年ゆえ、本来ならば慶應一高、もしくは慶應二高の名が歴史に刻まれているはずだが、記録に残るのは慶應高校。この裏には埋れたある事件が隠されていた。
慶應が明治高校(現・明大明治)を破って、甲子園出場を決めた時、明治高校から抗議が出された。すなわち、「慶應義塾第一高等学校、第二高等学校というのはあるが、慶應義塾高等学校という名称のものは、文部省には登録されていない。したがって、そういう偽りの校名における優勝は無効である」というものである(『二十年』64頁)。
なるほど、これは現代のコンプライアンスの考えに照らせば「アウト」の可能性もある。しかし、慶應には慶應の言い分があった。長尾雄野球部長は言う。「塾内ではいちいち、第一とか第二とか煩瑣に亘る呼名では呼ばず、運動部などの届けも慶應義塾高等学校という名称を用いて登録していたし、(これまでは)文句はでなかった」。2校に分かれていても、「内実はまさに1校であった」と釈明している(同書63頁)。
しかし、問題は俄かに大きくなる。寺尾校長も事態を憂慮し、「自ら連盟に出向いて、学校の内実を説明され、今更の訴えの不当なること」の説明に奔走した。また、長尾部長も朝日新聞社に赴き事情説明し、全国高等学校野球連盟に判断を仰ぎ、なんとか出場することが認められたのだった。
3. 普通部・商工の慶應連合チーム~ぎりぎりセーフ!
実は慶應には、これと似た「歴史」がある。1916(大正5)年の全国中等学校野球優勝大会、第2回大会である。この時、慶應は慶應普通部の名前で出場し優勝したが、主将でエースの山口昇は20歳で商工の5年生であった。ただし、この時は一切規定に抵触していないし、優勝に異議を唱える者もいなかった。
その後、慶應連合チームは6連続出場を果たし、6回大会でも準優勝を飾る。だが、この間に世の中は変わった。翌23年突如、「連合チームはけしからん」と別々の出場を促す声があがった。それに対して慶應がとった行動は連盟脱退。普通部、商工が別々に復帰するのは2年後である。この件も世間の認識とは違い、オール慶應の発想が塾内では当たり前だった証左ではあるまいか。
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七條 義夫(しちじょう よしお)
慶應義塾高等学校教諭、同校野球部前部長