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【講演録】福澤諭吉先生と津田梅子──職域接種への感謝を込めて

2023/03/15

福澤諭吉と津田梅子の共通点と相違点

梅子は、最初の米国留学で明治15(1882)年まで約11年間を過ごすことになりました。そして明治22(1889)年、再度アメリカに留学し、3年間ブリンマー大学で学びます。さらに明治33(1900)年の女子英学塾(後の津田塾大学)建学前の明治31(1898)年から32(1899)年まで約1年間、また明治40(1907)年には病気療養と視察のために約1年間、米国とヨーロッパに渡航し、大正2(1913)年には会議の出席を兼ねて約半年間と、生涯で5回の海外渡航を経験しました。

福澤先生も1860年の遣米使節で約半年間、1862年の遣欧使節で約1年間、1867年の再度の遣米使節で約半年間と、20代、30代の初めに海外渡航をして、大変大きな影響を受けておられます。

福澤先生がアメリカで男尊女卑ではなくて女尊男卑であることに驚愕した話は有名ですが、これは女性が男性の前を歩くといった表面的なことで、当時のアメリカ女性たちはまだ参政権は持っていませんでした。しかし、すでに参政権を求める運動を力強く開始していたことは事実です。鹿野政直氏によれば、福澤先生は「封建社会の秩序に疑問を感じそれからぬけだそうともしてきたがゆえに、近代文明に接したときに、それにめざめることができたわけである」。「封建秩序からの脱走をもくろんできた」ので「ここで文明へという方向をあたえられたことになる」(鹿野政直『福澤諭吉』)。

西洋の思想や文化、文明から積極的な面を学び、そしてそれらを日本に紹介しようとした姿勢は、福澤先生と梅子の最も顕著な共通点だったと言えると思います。しかし、大きな相違点は、梅子の場合には、あまりにも幼少の時分からアメリカの社会に接したことです。船の上で7歳になったので、到着したときには7歳でした。アメリカ人夫妻に養育されることになったため、日本人である官費留学生としてのアイデンティティーは強く持っていても、他方で価値観や宗教、習慣等を含む文化により身体全体でアメリカ化される経験をしたのです。

言語についても、母語であった日本語をほとんど忘れて帰国することになります。17歳で帰国した際には、梅子はとてつもないカルチャーショックを受けました。しかし、梅子はこれらの困難を一つ一つ乗り越え、自分自身が日本社会に対して何をなすべきか、一歩一歩考えて前進していきました。

帰国後、3年たってからようやく、今でいう正規雇用として、当時は官立の華族女学校、今は私立の学習院女子大学、女子中・高等科の前身の専任教員として勤務することが決まりました。しかし、梅子は20代の半ばで「第一級の教師」になりたいと願い、再度の留学を切望するようになります。最初の留学中に知り合ったメアリ・モリスという篤志家のアメリカ人女性が、ブリンマー大学長に掛け合ってくれて、授業料と寮費の免除という条件で、2度目のアメリカ留学を実現することができました。

梅子は当時、日本では女性に対して決して推奨されていなかった理系分野の生物学を専攻しました。もちろん、申請書に書いていた教授法も学んできました。福澤先生の場合は、物理学(窮理学)が非常に重要であったということですが、梅子の場合は生物学で、同じ理系の分野が学問の軸になっていたということも興味深い共通点だと思います。梅子は後にノーベル賞を受賞する、当時は新進気鋭の研究者であったT・H・モーガン博士の下で、カエルの卵の研究を行う機会を得ました。

日本女性米国奨学金の創設

2年間の充実した留学生活を経験した梅子は、さらに1年間の延長を願い出ました。主な目的は、留学のための奨学金制度をつくることでした。自らが得た貴重な高等教育の機会を、同胞の日本女性たちと分かち合いたいと考えたからです。

8,000ドルを集めれば、その利子で4年に1人の留学生をブリンマー大学に派遣できることがわかり、梅子の留学に力を添えてくれたモリス夫人や、メンターであった学部長のM・ケアリ・トマス先生が親身になって、今でいうファンドレイジングを支援してくれました。そして、1年間で当初の目標額である8,000ドルを集めて、日本女性米国奨学金と呼ばれる奨学金制度創設にこぎつけたのです。

本奨学金による留学生のリストを見ると、その後に顕著なリーダーシップを発揮した女性たちの列を見ることができます。

最初の学生は松田道です。明治32(1899)年にブリンマー大学を卒業し、後に同志社女子専門学校の校長となります。2人目は明治37(1904)年にブリンマー大学を卒業した河井道です。恵泉女学園を設立し、日本人初のYWCA総幹事となりました。

4人目の星野あいは明治45(1912)年にブリンマー大学を卒業し、帰国後は母校である女子英学塾の教師となります。大正14(1925)年からは塾長代理を務め、関東大震災の後の塾の復興を支えました。梅子が死去した昭和4(1929)年には、塾長に就任します。英語が敵性語となった太平洋戦争時代、英学を学ぶ志願者が激減し、津田塾は危機的な財政状況でした。この危機的財政状況下の塾を星野あいは支え、戦後に新制大学となった津田塾大学の学長を、昭和27(1952)年まで務めました。

昭和37(1962)年から昭和48(1973)年までの学長を務めた藤田たきは、本奨学金の7番目の受給者です。ブリンマー大学を大正14(1925)年に卒業し、第2代の労働省婦人少年局長や国連日本政府代表としても活躍しました。

河井道と星野あいは、占領期にGHQの肝煎りでつくられた教育刷新委員会の委員にもなりました。38人の委員の中で女性はこの2人だけでした。日米関係が悪化した時代を乗り越え、そして本奨学金が創設されてから半世紀以上も経て、アメリカ人と対等に交渉できる女性を育むことができたということです。

日本女性米国奨学金は昭和51(1976)年まで継続し、25名の奨学生を送り出しました。関東大震災や太平洋戦争という未曾有の危機に立ち向かい、慶應義塾と比べますと本当に小さな私塾ですがそれを継続し、発展させた多数の女性リーダーが、明治24(1891)年から1年間、津田梅子が展開したファンドレイジングの成果による奨学金制度によって、高等教育を受ける貴重な機会を得たことになります。

梅子が明治33(1900)年に官立の華族女学校を辞し、女子英学塾という私塾の創設に踏み切ることができたのも、実はこの奨学金制度を設立することができたというアメリカでの成功体験があったからです。同じメンバーが寄付母体となって梅子の私塾創立のプロジェクトを支えてくれました。梅子は学校をつくるおよそ10年前に、留学制度による人づくりに着手していたのです。

日本では大学の門戸が女性に閉ざされていたからこそ、アメリカ女性たちから支援を得て、アメリカで大学教育を受ける機会を獲得するというグローバルな仕組みをつくった津田梅子。梅子は自らが得た貴重な機会を1つの点で終わらせることなく、長く続く線にしたいと考えたのです。

福澤先生は安政5(1858)年に慶應義塾の源流となる塾を創設されました。梅子は、それから42年後の明治33(1900)年に女子英学塾を創立します。どちらも私塾としての出発であり、21世紀の現在になっても塾あるいは義塾という文字を大学名の中に刻む、ただ2つの高等教育機関であります。

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