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【講演録】福澤諭吉をどう読むか──『学者安心論』の位置づけを中心に

2022/03/11

6.「官民調和論」の起源

以上が、今日の講演で考えたかった第1の問題です。つぎに第2の官民調和論の問題に移ります。先ほどご紹介しましたように、福澤はその起源は明治10年でも15年でもなく、その前だと言っています。その部分を読みあげます。

「現に明治七八年の頃かと覚ゆ、故大久保内務卿と今の伊藤博文氏と余と三人何れかに会合したるとき(中略)其時余の説に、政府は固く政権を執り時としては圧制の譏(そしり)も恐るゝに足らずと度胸を極めながら、一方に民間の物論は決して侮るべからず云々と話したることあり。又其以前明治の初年(中略)鮫島尚信(ひさのぶ)氏より招待に預り推参したれば、大久保内務卿と相客にて主客三人食後の話しに」として、大久保が暗に福澤を民権論者の首魁のように見なして批判的な言葉を述べたので、福澤は反論し、国民の権利には政権と人権と二様の区別があり、自分は政事には不案内なので、政事は政府が宜しいようにやればよい、ただ人権については妥協せずにあくまで闘うと述べたのち、「今後歳月を経るに従ひ世に政権論も持上りて遂には蜂の巣を突き毀したるが如き有様になるやも計られず、其時こそ御覧あれ」、自分は蜂の仲間に入らないどころか、着実な人物として「君等の為めに却て頼母しく思はるゝ場合もある可し」と、恰も約束したことがあると福澤は『全集緒言』の末尾で書いています(『全集』第1巻63─64頁)。

この会合があったのは大久保日記により、明治9年2月27日のことだと分かっています(富田正文『考証 福澤諭吉』下巻449頁)。私がいぶかしく思うのは、福澤が大久保・伊藤との三者の会合を明治7、8年頃とし、しかも大久保との鮫島邸での会見を、それより前の明治初年としていることです。この前後関係の記憶が正しいとすれば、大久保との会見は明治9年2月ですから、伊藤を含めた3人の会合はそれより後ということにならざるをえません。つまり明治7、8年ではありえないわけです。

この関連で注意したいことは、福澤が当時つけていた「覚書」の記載から、『学者安心論』の脱稿が明治9年2月19日だと分かっていることです(『全集』第7巻664頁)。この著作の趣旨が、急進民権派に対して「自家の政」に専念して民間で活躍するように訴える点にあったことは、くり返し述べた通りです。別言すれば、これは政府攻撃を止めよということですから、政府にとって歓迎すべき論だったことは間違いありません。そして、2月19日の『学者安心論』の脱稿と、同じ月の27日の大久保との会見という時期的な近接から判断すれば、福澤が大久保に会った時に語った話の内容は、『学者安心論』の趣旨に即したものだったろうと推定できます。

また話がややこしくなりますが、ここで想起したいのは、『学者安心論』の基本の考えが政府と民間学者の役割分担論にあり、しかも福澤がそうした論を初めて主張したのは、明治7年1月の『学問のすゝめ』4編の「学者職分論」だったことです。おそらくこのために、福澤の頭のなかで記憶の混同が生じたと私は推測します。つまり実際には『学者安心論』の趣旨を素材にして、福澤は大久保に語った。しかしその『学者安心論』の基本的な考えは、明治7年1月の『学問のすゝめ』4編の議論だった。したがって、その2つが福澤の頭の中で混同された結果として、大久保との会見は、政府と民間学者の分業論を唱えていた明治初年の事だったという記憶違いが生じたと、私は考えているわけです。

この点と関連して、伊藤を交えた三者の会談がいつだったかが問題になります。福澤の記憶では明治7、8年頃というのですが、その頃の福澤は、民会設立をプッシュする方向で立論していました。その点から判断して、福澤が大久保らに「時としては圧制の譏も恐るゝに足らず」、度胸を極めて断乎やれと激励した時期としては、明治7、8年はふさわしくないように私は思います。

ここからは仮説になりますが、私は『全集』の編者が「政府は人望を収むるの策を講ず可し」(『全集』第20巻156─159頁)と題した原稿は、その内容から推して、この大久保、伊藤との三者会談用に福澤が準備したメモであろうと推定します。福澤はここで政府指導者と目される相手に向かい、守旧派の頑固士族が破裂する危険もあるような大勢を料理するには、一方的な命令で強制するやり方を改めて、上等の学者改進者流の人望を収めるのがよい、それには公平さが重要だと助言しています。

福澤曰く、今の日本政府は専制的ならざるを得ない。しかし、政府が権力を集中するのは裁判権、兵権、租税徴収権の三権に限るべきだ。しかるに内務省、工部省、大蔵省などは余りに多くの事業に手を出しすぎる。そうした政府主導の文明化策はやめて、民間に活動の余地を与えるべきだ。また政府の役人には、薩長やその伴食として土肥の藩士が多く、他藩の出身者も彼らとのコネがなければ役人になれない。それが士族の不満を高めている。だからよく審査して無能力者は退職させるのがよい。そうすれば上等社会の公平感を満足させ、人望を収めるだろう。

また九州四国辺にいる守旧派士族の処置や対外策をめぐり、政府は難事を遂行する必要がある。それにはまず衆議輿論(つまり雑誌新聞紙の類)に自由に語らせて、政府の為政の後楯にするのが上策である。「然るに今の政府は、常に直に難事の鋒鏑(ほうてき)に接して、却て無二の味方たる可き上等社会の学者流をも排して、之を敵の領分中に入らしむるとは、如何にも残念至極なることなり」(同上158─159頁)。結論として福澤は、「新聞条令讒謗律を廃して上等社会の望を繋ぎ、間接に政府を助て国安を謀る」ようにと求めています。

先ほど紹介した『学者安心論』は、民間急進派に対し政府との妥協を求める点に1つの主眼がありました。その点で改革派の間から、福澤は政府側に立って物を言っているという不満が出ても当然です。しかし逆にこの「人望収拾策」では、彼は政府指導者に向かって、政府主導の文明化政策を批判し、讒謗律新聞紙条例の撤廃を求めています。そして、上流改革派である新聞雑誌記者の言論を自由にすることで、改革を前進させよと助言しているわけです。これは明らかに政府に対して譲歩を求める内容です。

しかも前に述べたように、この「策」には「先日は廃刀の令あり」とあるので、同令が発布された3月28日から余り経っていない頃に作られたと分かります。ということは『学者安心論』とほぼ同時期の作ということになるわけです。

このように見てくれば、『学者安心論』と「人望収拾策」とは一対をなし、一方は民間急進派、他方は政府指導者という、福澤から見れば基本的に改革派でありながら対立している両者に向かって、それぞれに相手の理解を深め、協力して日本の文明化と独立保持のために活動することを求めていることが分かります。民間急進派には「君たちは民間の仕事をもっとやれ、政府批判にばかり集中するな」と言う。しかし政府の指導者には「民間の仕事に余計な口出しをするな、讒謗律新聞紙条例を廃止して言論出版を自由にせよ」と言う。とすれば、2つの議論をワンセットで出していた福澤が、『全集緒言』の末尾で、「官民調和論」の起源を大久保や伊藤との会談にあると回顧するのも、よく理解できるわけです。

以上、今日の講演では明治8年半ばから9年にかけての福澤の思想形成を素材にして、2つの問題について考察しました。ご清聴有難うございました。

(本稿は、2022年1月10日に三田キャンパス西校舎ホールで行われ、オンラインで同時中継された第187回福澤先生誕生記念会での記念講演をもとに構成したものです。)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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