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【講演録】福澤諭吉をどう読むか──『学者安心論』の位置づけを中心に

2022/03/11

4.『学者安心論』の要旨と背景

『学者安心論』の要旨と背景に移ります。この論考で福澤は、誰もが免れない傾向として「心情の偏重」(自分の気持の一方だけを重んずる傾向)を挙げています。人は直接に交わる相手の短所を見て、長所を見ない。また己に求めること軽く、人に求めることは多い。これは「英明の士」でも稀にしか免れない傾向で、しかもその弊害は「近日我邦の政談上に於ても大に流行するが如し」と述べて、本論に入ります(『全集』第4巻216頁)。

彼によれば、嘉永年中の開国以来、日本は新造の国家であり、人はその原因を王制維新の一挙に求めている。しかし、自分の考えでは政府は人事変革の原因ではなく、人心変革の結果にすぎない。そして天下の人心は改進に赴いたが「改進は上流に始て下流に及ぼすもの」なので、改進を喜ぶ者は上流にあり、下流はまだ之に達しない。

こうして日本には改進と守旧の二党派がある。そして、政府が「上流」に属し、改革派の一部なのは間違いない。とすれば、改進流を自認する者は誰であれ、政府の精神と方向をともにし、改革を進めて、守旧家をも改進派にするように努力すべきである。しかし実際はそうなっていない。その原因について福澤は、「改進者流の人々が各其地位に居て心情の偏重を制すること能はず、些々(ささ)たる地位の利害に眼を掩はれて事物の判断を誤り、現在の得失に終身の力を用ひて、永遠重大の喜憂を顧みざるに由」ると指摘します(同上217頁)。そして、自分も民権論にはまったく同意するとした上で、自説を主張します。

その要は、人民の国政関与は当然とした上で、「政の字」を最も広義にとり、「人民躬(みず)から自家の政に従事するの義を旨とする」というにあります。つまり「家政」という古くからある言葉が示すように、民間の事業にも「政治」の要素があるとして、民権論者中の急進派に向かって、非政治的な領域で活躍の場を求めるように勧めるわけです。そこには、急進派がとかく政府の政治を中心に物事を考えて、自家、つまり民間の領域をないがしろにする傾向への批判がありました。

このように主張する福澤がもっとも恐れたのは、民間と政府の両方にいる改進派が「心情の偏重」のために内部的な紛争を激化させ、その渦中で本来は異種の二元素である民間の急進改革派と守旧派とが「一時の抱合を為す」事態が生じかねないことでした。もしそうしたことが起これば、それが改革を阻害し「文明の却歩」を招くのは明らかです(『全集』第4巻222─223頁)。これを避けるために福澤は、民間の急進改革派に向かって、政治以外の分野で活躍の場を見出し、政府とは直接でなく、間接に接するように勧めたのでした。

注意したいのは、福澤がこうした政府と民間とを分ける考えを初めて明確に示したのは、明治7年1月の『学問のすゝめ』4編の「学者の職分を論ず」と5編「明治7年1月1日の詞」においてだったことです。これらで彼は、文明化を進める上における政府と私立中産の学者との役割分担を説き、学者の先導性を強調するとともに、「官あるを知て私あるを知ら」ない世の学者士君子を批判しています。

政府と民間の役割分担の強調という点で、『学者安心論』はこの明治7年初頭の立場を承けています。この結果、国政参加をプッシュしていた8年の議論と比べれば、一歩後退ということになりました。他方で、2年前の「学者職分論」では、「政の字の義に限りたる事を為すは政府の任」(『全集』第3巻48─49頁)として「政」を政府の職分に限っていたのに対して、『学者安心論』では、人民の事業も広義の「政」とする点が大きく変わっています。このように「政」の字を広義に解することで、急進派に民間事業への従事を勧める論法には、彼らを説得するための苦肉の策という面があったと私は考えます。

5.『分権論』の要旨と背景

以上『学者安心論』の趣旨を見てきました。そこで福澤が強調したのは、間接的な政府との接触でした。ところが、その福澤がわずか5カ月後に、地方自治という限られた形ではあるにせよ、具体的な直接論を提起したのが『分権論』にほかなりません。

先ほど述べましたように、この論考で福澤は、地方の士族に治権を与えることにより、彼らが長年の習慣の中で培ってきた国事(国家の政治)に対する関心を活性化させ、とくに守旧派の場合には、その気力を変形(トランスフォーム)させて生かす道を構想しました。『学者安心論』では、政府の形態に関して福澤は何も言っておりません。ただ、人民にどの程度の権を与えるのが適当かは、非常に難しい問題なので、政府は何度でも思慮を重ねるべきだと強調するにとどまっていました。ところが『分権論』では、彼自身が地方自治という形で具体的な政体論を示しているわけです。これはかなり自信があったに違いなく、実際、当時の書簡で彼は「余程名論の積り」と自負しています(『福澤諭吉書簡集』第1巻351頁)。

こうした変化を福澤にもたらした大きな外的要因は、いうまでもなく、9年10月にたて続けに起こった士族反乱です(神風連の乱、秋月の乱、萩の乱等)。福澤の著述を見ますと、彼はそれまでむしろ、士族の不甲斐なさに不平を漏らしています。つまり維新以来の開化の風潮の中で、士族がその誇りを失い、唯々諾々として流行に従っている、これは情けないという思いが彼にはありました(「廃藩置県の後に華士族の柔順なるは何ぞや」「世間一般の気風に圧制しられて如何ともす可らず」『全集』第19巻533─534頁など)。しかし、そうした中で起こった一連の士族反乱は、士族がもつ固有の気力を福澤に再評価させました。そして、その力を日本の独立と改革推進のために利用するには、どうしたらよいかを考えるに至ったわけです。

理論的には、当時自分が読みだしていたスペンサーのFirst Principles(『第一原理』)における「力の変形」の理論、それから先ほどふれましたように、トクヴィルの政権と治権の分離論を使っています。後者は福澤にとって最も信頼する仲間であった小幡篤次郎がトクヴィルをよく読んでいて、当時の福澤は彼からその知識を得たようです。こうした新しい理論を組み合わせて、地方分権の構想を示したわけです。それは福澤が初めて具体的に日本の政治体制論を示した論考として、画期的な意義をもっていました。

以上のように見てきますと、明治8年半ばから9年末にかけての1年半における福澤の意見の転変は、当時の国内情勢の激しい変化を背景として、それへの対応策として出されていること、そして従来の考えを基礎にしつつ、新情勢に応じて新しい理論を摂取して、新しい展望を示した結果としてあることが分かります。その意味において、これは論理内在的な発展としてあったと、私は評価いたします。

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