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【講演録】福澤諭吉をどう読むか──『学者安心論』の位置づけを中心に

2022/03/11

  • 平石 直昭(ひらいし なおあき)

    東京大学名誉教授

1.はじめに

ご紹介にあずかりました平石でございます。今日は福澤先生誕生記念会という、大変由緒のある会にお招きいただきまして、ありがとうございます。長年福澤を研究し、多くを学んできた者として、これは大きな名誉であります。講演の機会を与えてくださった関係者の方々に、厚く御礼申し上げます。

今日の講演の題目は「福澤諭吉をどう読むか」、副題として「『学者安心論』の位置づけを中心に」となっています。こうした主題を選びました背景について、最初に簡単に説明させていただきます。

ただいまのご紹介にありましたように、私は昨年末に『福澤諭吉と丸山眞男──近現代日本の思想的原点』という本を北海道大学出版会から出しました。もともと自分では、福澤と丸山について、それぞれ1冊ずつ出すつもりでおりました。しかし一昨年の春、北大出版会の竹中英俊氏から、私の福澤論と丸山論をまとめて本にしたいというお申し出がありました。そして自分でも考えてみましたところ、1冊にした方がよいかもしれないと思うに至りました。

なぜかと申しますと、ご承知のように福澤は幕末から明治、また丸山は戦前から敗戦を経た戦後という、いずれも日本社会がひっくり返るような激動の時代に思想形成を遂げ、その経験を踏まえて、その後の時代に知的なリーダーシップを発揮していった思想家です。その点で共通性がありますし、加えて丸山は非常に多くのものを福澤から学んで、自分の肥やしにしています。近代日本には稀な、思想の内在的発展の一例がそこに見られるわけです。

としますと、福澤と丸山を一緒に取り上げることは、読者の視野を広げ、近代と現代という2つの時代の思想史を統一的に捉えることに資するのではないか。このように考えて、このお申し出を受けることにしたわけであります。

以上からおわかりいただけますように、この書物は既発表の論文をまとめたもので、いわゆる書下ろしではありません。ただ、元の原稿を書いた後に、その主題に関して新しく思いつくこと、あるいは旧稿を部分的に訂正する必要があること、またいただいた批判にお答えする必要が出てくる。こうしたことは当然であります。そうした点についてこの本では、各論文の後に「追記」を加え、また書物全体の末尾に「後記」を加えることで対応しました。

本日の講演は、この本の第3章として収めた、「理論」と「政談」、およびその論文の後に加えた「追記」で『学者安心論』を論じた部分を素材とし、それを時間の流れにそって再構成することで出来ています。このことを最初に申し上げておきたいと思います。

2.2つの基本的な問題関心

本論に入ります。この講演で考察したい問題は2つあります。1つは明治8年半ばから9年末にかけての1年半に、人民と政府との関係をめぐる福澤の主張は二転三転していまして、それをどのように理解したらよいかという問題です。具体的に申しますと、明治8年6月に発表した「国権可分の説」で福澤は、ある人が「日本の人民には政府と対立する気力がない。文明は政府と人民との争論の中で進むのに、人民がそういう状態にある以上は、民会を起こし政治法律の改革をしても無用だ」という趣旨の主張をしたのに反論して、「形はどうあれ、政府と人民とが両立して国権を分かち、その間の議論を通して文明化を進めることが必要だ」という趣旨を強調しています。これが「民会」の設立を支持する立場であることは明らかです。

ところがそれから10カ月をへて、翌明治9年4月に公刊された『学者安心論』を見ますと、そこで福澤は、人民が「自家の政」に専念するように勧めています。人民は税金を出して国の政治を支える以上、人民が政治に関わるのは当然である。ただ政府の政治に対する人民の関わり方は間接的であるべきで、直接的であるべきではないと言うのです。

今日風にいえば、市民社会の領域で人民が活動する余地は沢山あるのだから、そういう分野で活躍すればよい。そこにも広い意味の「政治」はあると言って、当時の民権を主張する民間の急進派が、政府の政治領域にばかり議論を集中することを批判するわけです。10カ月前の「国権可分の説」に比べて、人民の国政参加という点で、これが後退した議論であることは明らかです。こうした変化がどうして起こったのかが問題です。

ところが、問題はそれにとどまりません。というのも同じ明治9年の末に彼は『分権論』を書いており(刊行は翌年11月)、そこでは『学者安心論』での主張をもう一度ひっくり返して、地方の人民に治権を与えよと主張しているからです。ここで彼が利用しているのは、有名なトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』における議論です。トクヴィルはそこで国家権力をガヴァメント(福澤は政権と訳します)とアドミニストレーション(これが治権です)とに分けます。

「政権」というのは、国家権力が全国一般に及ぼす権力で、一般法の制定、陸海軍の編成、中央政府を支える租税の徴収、外交と和戦の決定、貨幣の鋳造等が主な内容です。これに対して「治権」は、国内各地の便宜に従い、その地方に住む人民の幸福を図る権力です。警察、道路橋梁堤防の建設管理、学校寺社遊園地の設営、衛生、地方税の徴収等を内容とします。そして福澤はこれら2つのうち、政権は中央政府が握るべきだが、治権は地方に委ねて、地方の人民(具体的には士族層)が自治の訓練を積むようにと提案しているわけです。

以上をまとめますと、明治8年6月には民会設立を支持していたのが、翌年4月には人民の「自家の政」への専念を説き、さらに5カ月後には、人民の地方政治への参加を主張しているわけです。この短期的な転変をどのように考えたらよいか。これが今日考察したい問題の1つです。

もう1つは「官民調和論」の問題です。晩年に出した『福澤全集』全5巻の冒頭には『福澤全集緒言』が置かれています(明治30(1897)年9月10日付)。注意したいのはその末尾で福澤が、自分の政治論の主旨は「官民調和」にあるが、その起源は明治10年でも15年でもなく、もっと前にあったと書いていることです。

10年をあげたのはその年の11月に出した『分権論』が念頭にあり、また15年は、その年に創刊した『時事新報』紙上における政治評論の要が、官民調和にあったからに違いありません。しかし福澤としては「官民調和」の観念はもっと前からあったとして、大久保利通との会見、それに伊藤博文を加えた三者の会合の話が出てくるわけです。しかしそこで紹介されている彼らとの話の内容が、どうして官民調和論の起源と言えるのか。これはずっと前からですが、私には腑に落ちない点がありました。それにはこの部分に、福澤の記憶の混同があることも一因と思います。

しかし、今回の講演を準備している最中に、現行の『福澤諭吉全集』の編者が「政府は人望を収むるの策を講ず可し」と仮に題した原稿が目に留まりました(『全集』第20巻156─159頁)。その中には「先日は廃刀の令あり」という表現があります。この廃刀令が出たのは明治9年3月28日で、それを「先日」と表現していることからして、この一文は、それから余り日が経っていない頃の作と推定できます。そしてその内容を検討すると、『全集緒言』で福澤が大久保や伊藤を相手に語ったという話の趣旨と、大筋で一致することが読み取れました。

としますと、福澤の頭の中では、この論考は同じ9年の4月に出た『学者安心論』と一対をなすもの、いわばワンセットとして理解されていたと推定できます。そしてそうした文脈で読めば、なぜ福澤が自分の官民調和論の起源を大久保らとの会見に求めたか、その理由も理解できるわけです。その点の考察を、今日の講演のもう1つのテーマにしたいと思います。

3.「国権可分の説」の内容と背景

以上で問題の提出を終えまして、これから内容の分析に入ります。最初に第1の問題についてですが、「国権可分の説」から『分権論』までの著作、つまり明治8年半ばから9年末までの著作を読む際に重要なことは、福澤がそれらを書いた歴史的背景との関連です。

まず明治8年6月に出された「国権可分の説」ですが、全体の論調は自信に溢れています。これは私の理解では、同じ年の4月に脱稿した『文明論之概略』で、福澤が明治維新をイギリス・フランスの市民革命の歴史的対応物として捉え、したがって今の維新政府は、人民が幕府の専制権力を倒して建てた革命政権であり、リベラル・パーティーだという理解を確立したことが、非常に大きいと考えます。

ギゾーの『ヨーロッパ文明史』等の読解を通じて福澤は、文明は政府の専制権力と人民の智力とが闘って、人民が勝つことによって進むという歴史法則を学びました。そして同じことが日本でも現実に起こったとして、明治維新を理解しました。つまり維新革命を、たんに日本史という限られた文脈の中だけで捉えるのではなく、世界史的な視野の中で把握し、位置づけたことが重要です。そしてこうした理解に立てば、その延長線上に人民が国政に参加するのは当然だという見方が出てくるのは、ごくナチュラルなわけです。ですから『文明論之概略』の草稿には、民会設立を支持する一節がありました。

こうした福澤の論調には、同じ時期の政府の動向が作用していたと思われます。ご承知のように、維新政府は明治6年の後半にあった征韓論争によって分裂します。そして西郷隆盛は仲間とともに鹿児島に帰りますが、板垣退助、副島種臣、江藤新平といった元参議らは、明治7年1月に「民撰議院設立建白書」を左院に提出し、しかもそれを『日新真事誌』という新聞に公表します。これがキッカケになって設立論争が始まったことは、ご承知の通りです。そして福澤の「国権可分の説」も、その波紋の広がりの中で、彼が明六社の演説会で加藤弘之らと論争し、その際の議論を敷衍して書いた面があるわけです。

その後の政府の動きをみますと、明治7年には台湾征討が大きな問題になりました。この問題をめぐって、内治優先の筋を通した木戸孝允は、4月に参議を辞職し、故郷の萩に帰ります。一方残った大久保はその年の10月末に、清国から50万両を賠償金として受けとることで、この問題に決着をつけました。しかし、維新の功臣である西郷や木戸を欠いていて、権力基盤が安定しない。そこで大久保は木戸に政権への復帰を求めます。一方、木戸は木戸で、板垣も一緒に戻ることを求めました。そうした中で、明治8年2月には有名な大阪会議が開かれ、大久保、木戸、板垣の間に一定の合意が成立します。そして3月には、木戸や板垣が参議に復帰し、4月にはいわゆる「漸次立憲政体を設立する」という詔勅が出されるわけです。

この詔勅で大事な点は、立憲政体の設立へ至る段取りとして、内閣とは別に元老院や大審院(裁判権力)を設置し、地方官会議の開設を決めたことです。とくに板垣の頭の中では、地方官会議には将来の民撰議院への第一歩という位置づけがあったことが注目されます(『自由党史』岩波文庫版上巻167頁)。しかも、この地方官会議の議長になったのは木戸孝允でした。したがって、漸進論(木戸)と急進論(板垣)の違いはありつつも、両者が人民の政治参加という点で、共通の立場に立っていたことが推測できます。以上が明治8年の2月から4月にかけての動きです。

こうした政府の動きを福澤から見れば、自分が考える方向と大筋で一致する方向に政府も向かっていると見えたに違いありません。ですから6月に出た「国権可分の説」に窺える余裕は、自分が歴史の主流に棹さしているという彼の認識も作用していたと思われます。

ところが、この直後に問題が起こります。何かと申しますと、明治8年6月28日に讒謗律(ざんぼうりつ)・新聞紙条例が発布され、反政府的な言論に対する統制が強化されたことです。福澤はこの新法をどうみていたでしょうか。先ほど申しましたように、彼は維新政府を基本的にリベラルと性格づけていました。とすれば、その政府がどうして言論の自由を抑圧するのか、これは当然問題になるはずです。

これに関して、福澤はすでに「国権可分の説」で、次のように書いていました。「今改革家の説を主張して書を著す歟(か)、若くば新聞紙等に激論を記るせば、往々政府にて之を悦ばざることあるが如くなれども、こは唯日本政府たる者の習慣と専制の余炎(燃え残りの炎)とに由て然るのみ」と(『全集』第19巻535頁)。ここから推測すれば、おそらく福澤は、この新法は維新政府の歴史的本質によるものではなく、『文明論之概略』第9章「日本文明の由来」で分析したように、日本歴史はじまって以来続く「権力の偏重」という習慣が今の政府にも作用して、専制の余炎が燃え上がったものと見ていたと思われます。

この新法が与えた重大な影響は、これに抵触して多くの記者が処罰されたことです。福澤は彼らに大いに同情し、例えば末広鉄腸が禁固刑をうけた時には、沢山のビールを見舞いとして届けています。これはよく知られた例です(『福澤諭吉事典』「年譜」1030頁)。そしてこの新法にもかかわらず、実際には明治8年から翌年にかけて、士族民権派の急進的な政治評論雑誌が多数発刊されました(『近代日本総合年表』第4版68頁)。

福澤が明治9年2月に『学者安心論』を書いた背景には(刊行は4月)、こうした急進派の動きを見て、それをいかに望ましい方向に導くかという動機が作用したのは間違いありません。時間の都合で今日はふれませんが、そこには、政府内部での木戸や板垣の影響力が弱まり、改革派が行き詰まったという事情もあったと思われます(板垣は明治8年10月に参議免官、木戸は9年3月に参議を辞任し内閣顧問の閑職に移る)。

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