【その他】
【講演録】❝この人民ありてこの政治あるなり❞の今日的な意味合いを語って、10年
2021/08/23
おはようございます。今年も5月15日となりました。
官軍と彰義隊が戦っていた1868年から今年は153年目、当日の5月15日の時間割を調べてもらうと、福澤先生によるウェーランド経済書の講述は朝の10時からでした。開戦は朝8時頃ですから、10時からの先生の授業は、銃声、砲声が聞こえる中で行われていたようです。
政府軍のトップは大村益次郎。彼は福澤先生よりも11歳年上で、1849年に適塾塾長。福澤先生は6年後、1855年に塾長。そして上野戦争を迎え、そのトップが大村益次郎。江戸中が大騒ぎしていた中、戦争の当日に2里離れた新銭座、今の浜松町あたりで福澤先生はウェーランドの経済学を講義する。この翌年、大村益次郎は暗殺されます。享年45。
『学問のすゝめ』と「学問に凝る勿れ」
さて、本日の演題は、「“この人民ありてこの政治あるなり”の今日的な意味合いを語って、10年」です。演題に「10年」とあるのは、実は、2010年の春、通信教育部の入学式で講演をするように依頼された時、「“この人民ありてこの政治あるなり”の今日的な意味合い」という話をしているからです。早いもので、あれから11年が経ちました。
2010年は、民主党政権でした。政権交代は、前年の2009年8月の選挙で行われています。そうした政治状況のなかで、通信教育部の入学式で話をしてくれとの依頼がきて、講演を引き受けた時、「演題はどうしますか」と問われ、ふと思いついたのが、「この人民ありてこの政治あるなり」でした。
この言葉は、『学問のすゝめ』の初編にあります。『学問のすゝめ』は、はじめは初編のみを出すつもりで書かれていました。
初編に続く第2編は、初編から1年9カ月後に書かれ、その後、書き続けられていったわけですが、物書きの1人として言いますと、そうした事情の下で書く文章は、これ1つを読めば全体像がわかるようにすべてのメッセージを最初の文章に書きたくなるものです。福澤先生もそのように考えていたようで、初編には、先生の思想のエッセンスのすべてが書き込まれています。その初編に、次の文章があります。
「愚民の上に苛(から)き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。故に今、我日本国においてもこの人民ありてこの政治あるなり」
民主党政権下の2010年頃、当時の政治は酷いものでした。2009年の総選挙の随分と前から、彼ら民主党のマニフェストに書かれていることが実現できるはずがないことは明らかでした。
福澤先生は、国民に学問をすすめました。そして、21世紀に入って10年近く経っていた当時は、『学問のすゝめ』で説かれていたくらいの学問は、みな修めているはずでした。しかし、日本の政治は世界に先駆けてポピュリズムに走っていった。あれから10年、この国から与党を牽制する力を持った野党がなくなってしまいました。あのころのポピュリズムの弊害は今も尾を引いています。
福澤先生は、学問が進んだ国においても、いわゆるポピュリズムという問題が起こって社会がおかしくなるということを、どこまで考えていたのか。
丸山眞男さんも『文明論之概略』を評して、福澤先生が「啓蒙主義的な進歩」を信じていたことを指摘しています。18、19世紀の進歩観というものが無残に崩れ落ちていくのは、福澤先生が生きた時代のずっと後でした。20世紀に入ると、かたちの上では民主主義は実現されていたのですが、その中で民主主義が壊れていく話が登場するのは、ウォルター・リップマンの『世論』が1922年、オルテガの『大衆の反逆』が1929年、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』にいたっては1951年ですから、福澤先生の生きた時代にはまだ楽観がありました。
ところで、慶應は、1890年に大学部が設置され、開校式、つまり入学式が開かれました。その大学部の入学式の日に、日本中から集まってきた学生を前に、先生は「学問に凝(こ)る勿(なか)れ」という講演を行っています。およそ20年前には『学問のすゝめ』を書いていた先生が、今度は、学問ばかりに凝り固まってはダメだよという話をする。しかも、大学部が創設され、日本中から集まってきた血気盛んな若者たち60人が、「さあ、今から学問をするぞ」と構えているところで、「学を学んで人事を知らないのは碁打ち、詩人と変わらないぞ。それでは、人生は完全なものではなく、物に触れ事に当たっては、いつも極端なことばかりをいう人間になってしまうぞ」と話をするわけです。
福澤先生は、バランスが悪く何事も極端に走る人を、「バカ」と定義しているようなところがありまして、そういうスマートさに欠ける人になってはいけないと言う。慶應には、そういう福澤先生のスピリッツみたいなものがずっと継承されてきたと思います。
私が出席した入学式や卒業式に関する数少ない記憶の中で1つ明確に覚えているのは、大学院の入学式で、当時塾長だった石川忠雄先生が、「専門バカになるな」という話をされたことです。私をよく知る人たちは、慶應義塾から、私が「学問に凝る勿れ」(勿凝学問)の精神を大いに学んできたということを分かってもらえるかと思います。今でも、この、遊び心というかユーモアも兼ね備えた学問に凝る勿れ(勿凝学問)の精神は大好きです。
今日は私が社会保障や財政の研究をしていく上で、その1点だけに凝り固まった視点からは少し距離を置いた話題にも触れていきたいと思います。
年金破綻キャンペーンで動いた世論
私の専門は社会保障政策です。本日はまず、政策論の世界ではめずらしく、すでに決着がついた話、誰がどのように間違えていたのかがはっきりしている話、しかし、みなさんの心の奥には、年金が政争の具とされていた時代の傷が深く残っている話をしたいと思います。
10年前、この国の年金は破綻していたらしいです。だから、日本の年金には抜本改革が必要であるという話が多くの人たちに信じられていました。年金はたしかに政治的に盛り上がっていました。しかしあれはタダの空騒ぎであって、実際に世間で言われているような問題があったわけではありません。
世間では、私は年金の専門家と目されているようでもあり、今年1月に出た『日本年金学会創立40周年記念論文集』でも、第一章の総論を書かされています。ですけど、私は年金の研究者と思われるのが昔から嫌なんですね。私のゼミは今年で23期目になりますけど、1人も年金をテーマに卒論を書いた学生はいません。理由は、年金は、正確な知識を得ることは大切ですが、学生が「考える」訓練をするような対象ではないからです。
しかし、年金は、民主主義の問題を考えるのにいい題材ではあります。公的年金の歴史も制度も知らない者たちが大挙して参入してきて、政策論を大混乱させたわけですが、いつの頃から経済学という学問は、制度や歴史を知らなくても政策論に参加できるという蛮勇を経済学者に持たせるようになったのか、そして政策、制度の細部を知らない政治学者も然り、等々、年金の世界は、いろいろなことを考えさせる材料にはなってくれます。
私の社会保障の授業では、民主主義と情報問題というような話をしますし、メディアとは何なのかという話もよくしますが、それは年金騒動から学んだ面が多くあります。
2013年に鳩山由紀夫元首相が「年金がボロボロになって、歳をとってももらえなくなるという語りかけは、非常に政権交代に貢献してくれた」と論じているように、2009年の政権交代選挙での民主党の圧勝には、彼らの年金破綻キャンペーンが大きく貢献していました。
日本の公的年金は、2004年に大きな改革が行われ、強行採決で法案が成立し、今のかたちができあがりますが、世論調査では7割の人たちが改革に反対でした。そのころ、在野では私1人だけが、「この改革は別にみんなが言うほど悪くはないんだけどね」と言っていたわけです。しかし、世論というものは、キャンペーン次第で動いていく。
抜本改革への妄信
その改革案が国会で議論されている時、まだ若かった枝野幸男氏は、「(現行制度は)間違いなく破綻して、5年以内にまた変えなければならない」などと発言し、党内での地位をあげていく。
当時民主党が言っていた「最低保障年金」というものを実行するためには、数兆円の国庫負担が必要になるわけで、その財源をどのようにして調達するのかと国会で問われた枝野氏は、「〔財源のことは〕難しいことではありません。政権を代えていただければ、やる気があるかどうかという問題であって……一度任せていただければ実現をいたします」と答える。同じ頃、岡田克也氏は、「国民年金制度は壊れている」と発言する。
私は人生で一度だけテレビに出たことがあります。それは、2009年5月31日、日曜朝の「新報道2001」です。8月30日の総選挙のちょうど3カ月前になります。岡田さんが民主党の幹事長になって初めてのテレビ出演の日で、年金が破綻していると言うから、私が、「どこが破綻しているんですか? 政策はよく勉強して論じた方がいいですよ」と話したら、彼のこめかみに青筋が立っていくのが分かりました。あの日の様子は、YouTubeかニコニコ動画かにアップされているそうで、よほどおもしろかったのかもしれません。
こうした年金破綻キャンペーンが功を奏して、つまり、皆さんが彼らのキャンペーンを信じる状況ができあがったおかげで、2009年8月の総選挙で圧倒的な勝利を得ます。この国の政治があまりにもバカバカしく、彼らが早晩行き詰まることは分かっているし、彼らと関わることなどあり得なかったから、私は、総選挙の夜に、政府の仕事を辞めると連絡しています。その後、民主党政権下で、いくつかの仕事の依頼がありましたが、断っていました。
政権交代後、彼らの論は一転していくことになります。2009年10月には、厚生労働大臣となった長妻昭氏は「年金は破綻しません、国が続く限り必ず支える」と、当たり前の話をするようになる。
破綻している年金を抜本改革して、最低保障年金をつくるということが彼らの公約だったから、さすがに、その必要財源がどのくらいになるのかの試算をする必要がでてきた。なにより、そうした試算を行うこともなく最低保障年金を何年間も言い続けていたこと、そして、それを支持していた学者がいたということが不思議でした。ちなみに私たちは、どの程度の規模の財源が必要になるかを随分と前から分かっていましたが、彼らはそれは自分達のとは違うと言い続けていた。
政権交代の後、追い込まれた民主党の幹部は、年金局に試算を行わせ、その結果が、あまりにも非現実的なもので、実行可能性はまったくなかったので、数人の民主党幹部は、その試算を隠すことにします。しかし試算はリークされて、国会で、当時の野党自民党から質問攻めにあって国会が大混乱になる。
2012年頃になると、岡田副総理は、国民年金は破綻しているとの野党時代の発言を撤回して、「年金制度破綻というのは私もそれに近いことをかつて申し上げたことがあり、それはたいへん申し訳ない」と国会で詫びる。当時の野田佳彦首相も、「(現行の年金)制度が破綻しているとは言えない、破綻するということはない」と国会で発言することになる。
しかし、彼らは下野すると、再び年金を政争の具として用いていくことになる。
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権丈 善一(けんじょう よしかず)
慶應義塾大学商学部教授