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福澤諭吉記念慶應義塾史展示館
第5回 「日本国中唯慶應義塾のみ」――ウェーランド経済書講述記念の日

2021/06/16

  • 横山 寛(よこやま ひろし)

    慶應義塾福澤研究センター研究嘱託

企画展の構想

2021年5月15日、図書館旧館にて塾長をはじめ少数の関係者のみが出席して福澤諭吉記念慶應義塾史展示館の完成式が行われた。本来12日に開館記念式典を行い、14日までの内覧期間を経て、15日より一般公開というスケジュールを立てていたが、新型コロナウイルス感染症蔓延に伴う緊急事態宣言の延長により計画は最小限に縮小され、完成・・式のみ行うこととなった(開館も延期)。そもそも5月15日を展示館の一般公開日に決定したのは、いうまでもなく慶応4(1868)年5月15日の上野戦争当日、福澤諭吉が芝新銭座の塾で戦争に頓着せずカリキュラム通りウェーランド経済書の講義を行った記念の日にちなんでいる。連載最終回ではこの福澤および慶應義塾にとって最も重要なエピソードをテーマとした展示館主催の第1回企画展について概略を紹介しよう。

このたび図書館旧館2階に完成した慶應義塾史展示館は常設展示室の隣に旧小会議室を改装した小ぶりな企画展示室を備えている。ここでは展示館主催の企画展を年2回程度開催するほか、塾関係の各種団体による利用に供するなど、現在運用を検討中である。この企画展示室にて7月5日(月)~9月11日(土)の日程で開催を予定しているのが企画展「慶応4年5月15日──福澤諭吉、ウェーランド経済書講述の日」である(なおこの開催日も慶応4年5月15日を新暦に換算した1868年7月4日にちなんでいる)。展示では福澤とウェーランドの「出会い」から上野戦争の日、そして義塾におけるこの逸話の継承を辿ることで、ウェーランド経済書講述記念日がいかなる意味を持つのか、あらためて考える契機としたい。

福澤諭吉とウェーランド、上野戦争

そもそもウェーランドとは19世紀半ばまでアメリカのブラウン大学学長を務めた経済学者・道徳哲学者のフランシス・ウェーランド(Francis, Wayland)のことで、ウェーランド経済書はその著書The Elements of Political Economy(1837)を指している。福澤は慶応3年、2度目のアメリカ行きの際に塾の教科書として洋書を大量に購入、同書もそのときに手に入れたものである。これが福澤とウェーランドの「出会い」であった。ウェーランドにはThe Elements of Moral Science(1835)の著書もあり、福澤自身しばしば自著のなかで名前を挙げて言及している。ウェーランドの両著書は塾内で重視され、前者を小幡篤次郎が『英氏経済論』、後者を阿部泰蔵が『修身論』として翻訳した。

アメリカから帰国した福澤は慶応4年4月、塾を築地鉄砲洲から芝新銭座へ移転、時の年号をとって慶應義塾と名付け、建学の精神を「慶應義塾之記」として発表した。ここには塾の時間割も掲載され、火・木・土の10時~が福澤によるThe Elements of Political Economy の講義日であった。そして慶応4年5月15日(土)午前、新政府軍と旧幕府側の彰義隊が上野で戦闘を開始。その砲声が轟くなかで、福澤は通常の時間割通り講義をしたのである。福澤は、ナポレオン戦争時にオランダが侵略されて国土を失った際、世界中でただ1か所、長崎の出島にだけその国旗がはためき、これをもってオランダ人がオランダ王国はかつて滅亡したことがないと誇っていることを例にとり、慶應義塾は日本の洋学にとってオランダにおける出島と同様で、変乱があってもその命脈を守り抜いたとしてこの出来事を大いに誇った。そしてその後、折に触れこのエピソードを塾生塾員に語ったのである。早くは慶応4年の中元、7月15日を無事に迎えたことを祝う「中元祝酒之記」に見られる。

伝説化するウェーランド

明治10年代初めに義塾は深刻な経営難に陥り、福澤も資金集めに奔走する。この時期に社中を鼓舞した演説「明治十二年一月二十五日慶應義塾新年発会之記」でも、「上野の彰義隊を撃つの日にも、本塾の講堂にては偶(たまた)ま「ウェーランド」氏の経済論を輪講するの定日に当り、砲声を聞き烟焰(えんえん)を見ながら講席を終りたることあり。当時在塾の社中は必ず之を記憶に存し忘るゝこと能わざるべし」と述べている。福澤自らが筆を執り、慶應義塾25年史ともいうべき「慶應義塾紀事」にも同様の記述が見られるし、「気品の泉源、智徳の模範」の一節がとくに有名な「慶應義塾の目的」の一文は、元々福澤の演説の末尾部分で、その前半ではやはりウェーランドに言及している。すなわち晩年に『福翁自伝』で語ったウェーランドのエピソードはいわば福澤の十八番で、繰り返し塾生たちの耳目に触れていたのである。

その後、福澤は明治34(1901)年に亡くなるが、早くも明治37年には義塾関係者の依頼によって日本画家・安田靫彦(ゆきひこ)による「福澤諭吉ウェーランド講述之図」が制作されている。

時代は下り、昭和の戦争の時代になると、自由主義を否定する思潮が強まり、福澤や義塾もときに社会から敵視された。そうした状況下で作られたのが昭和15(1940)年に完成し、現在も歌われる塾歌である。その歌詞の一番

「見よ
風に鳴るわが旗を 
新潮寄するあかつきの 
嵐の中にはためきて 
文化の護り
たからかに 
貫き樹てし誇りあり
樹てんかな この旗を 
強く雄々しく樹てんかな 
あゝ わが義塾 
慶應 慶應 慶應」

はウェーランドの逸話を寓したものであると、作詞した福澤研究者の富田正文は述べている(詳しくは本誌2018年5月号、山内慶太「塾歌に歌われた慶應四年」参照)。それゆえ「風に鳴るわが旗」とはブルーレッドアンドブルーの三色旗ではなく、先に紹介したオランダの旗に連なるもの、つまり洋学、文明の旗印を意味しているのである。

その後太平洋戦争が勃発、戦局は悪化し、昭和18年の学徒出陣に至る。この時、経済学部教授高橋誠一郎は『三田新聞』学徒出陣記念号に一文を寄せ、陸海軍への入隊が決まっても冷静さを失わず、講義を受ける学生たちの様子を指して、「官軍の砲撃を受けて上野の堂塔皆炎上するの日、砲声を聴き焰煙を見ながら静かに講席を終った慶應義塾魂の76年後の再現とも称す可きものであらう」と記した。またアメリカ軍の空襲が本格化した昭和20年に開催された福澤先生誕生記念会では塾長小泉信三が空襲下の日本と絡めてやはりウェーランドの逸話を語ったという(詳しくは本誌2018年5月号、都倉武之「昭和二十年のウェーランド」参照)。戦時下の非常事態においてウェーランドの記憶はさかんに呼び覚まされたのである。

行事化するウェーランド

戦後、義塾は昭和31年に5月15日を福澤先生ウェーランド経済書講述記念日と定め、以後この日に一般向けの講演会が行われるようになった。また昭和39年には幼稚舎が創立90周年を迎え、それを記念して完成した歌「福澤先生ここにあり」の歌詞には「芝と上野は八キロだ 上野に戦あればとて 芝新銭座は別世界 とどろけばとて弾丸は来ぬ いつものとおり授業する」とある。これもまたウェーランドをテーマとしている。作詞した佐藤春夫はその経緯について次のように言う。「福澤先生のどういふところをどう歌ふべきだらうか。これは先づ小泉信三先生のお教へを願ふことにした。すると先生は、お前はどこを歌ふ気かと反問されたから、わたくしは上野の戦争をよそにして授業して居られる先生はいかがでせうかと答へると、それだ、それが福澤伝のサワリだと仰言って詳しくそれに就いて語り、福翁自伝に因るべしとも教へられた。わたくしははじめ「福澤先生ここに在り」と題して先生の一生を四行四十節ばかりに歌った初稿から小泉先生の示教による部分だけを残し、推敲してやっと〆切の前日あたりにその任を果し得た」(『仔馬』第十六巻第一号)。この歌は毎年1月10日の福澤先生誕生記念会で幼稚舎生が合唱し、恒例行事となっている。

以上が企画展のストーリーの概略で、ウェーランド経済書講述をめぐる慶應義塾史といった構成になっている。本文中に言及したもの以外にも戦前の図書館に掲げられていたと思われる出島の図、上野戦争の錦絵など多数の資料を展示する予定である。また展示館の入る図書館旧館の設計者・曾禰達蔵(彰義隊士)や牧師・江戸時代史家の戸川残花(彰義隊士)といった上野戦争に参加した慶應義塾関係者などもわかる範囲で紹介したい。

上野戦争の様子を描いた錦絵 (永島芳虎「東台大戦争図」、福澤研究センター蔵)

冒頭で述べたように展示館は新型コロナウイルスの影響をまともに受け、本来の開館時期からは二転、三転した。企画展の準備も同様で他の機関からの資料借用計画もままならならず、構想を練り直しながら日々更新しているのが実情であるが、それでも開催することに意義があると考えている。ウェーランド経済書講述の日は義塾のアイデンティティーに関わり、慶應義塾史入門ともいうべき第1回企画展に相応しい内容を含んでいる。実際常設展示にも関連資料が展示され、両者はセットと捉えてもらって構わない。そして同時に新型コロナウイルスの流行という非常事態において、きわめて時宜を得たテーマともなった。オンライン授業など学問、教育機会への関心も強まる今日、義塾において連綿と受け継がれてきた「ウェーランド」の歴史が問いかけるメッセージに、我々はどう応答できるだろうか。

彰義隊の名付け親・阿部杖策の入 塾記録(『慶應義塾入社帳』より)

(本連載は今号で終了します)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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