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【講演録】福澤諭吉と社会教育

2021/03/11

福澤を社会教育に向かわせたもの

『学問のすゝめ』12編に、「学問は唯読書の一科に非ず」という一文があります。もちろん個人が読書をすることも学問の一つの形でありますが、福澤にとっての学問とは、個人でしっかりと勉強するだけでなく、自ら集めた知識を談話でもって人と交易し、著書や演説などで知見を散ずることでもありました。

言うまでもなく、読書というものは一人でできますが、談話や演説は一人ではできない。福澤によれば、これこそがまさに結社のような集まりの中でしかできないことでした。福澤の言う学問という営みは、現在よりもずっと広い意味合いを持っており、研究し、交流を通じてそれを発表する、といったところまでを含めて学問と呼んでいた、と言ってよいかと思うのです。

福澤の「社会教育」とはまず同志が集まり、その中できちんと議論を重ね、それをもって結社の外の人々に対して働きかけていくことだったと言ってよいでしょう。

よく知られていますように「修身要領」は福澤の最晩年に門下生たちによってつくられました。これを世に広めるために、福澤が費用を出し、全国各地で普及講演会を行ったわけですが、明治33年の2月に「修身要領」ができたその年の夏、福澤は慶應義塾を廃塾にし、この三田の土地を売って、それを「修身要領」の普及に充てようと言い出しました。それを聞いた福澤一太郎や当時塾長だった鎌田栄吉が非常に困惑したわけですが、もちろんそれは実現しませんでした。

福澤は最晩年に、「修身要領」の普及、つまりは社会教育の普及と言ってよいと思いますが、そうした外に向かって発する部分に重きを置こうとした。このことにどのような意味があるのでしょうか。そのことを今、慶應義塾にいる私たちは考えなくてはならないのではないだろうかと、私はこれまで様々な機会に述べてきました。

福澤を社会教育に向かわせた背景には、明治30年代の慶應義塾が、福澤が思い描いていたような姿ではなくなってしまっていたことがあったのではないか。つまり、同じ志を持った人々が集まり学問をし、交流するという部分が失われつつあると福澤の目には映ったのかもしれない。そうであるならば、今の慶應義塾も社会教育という観点から見てどうなのか、と改めて考える時なのではないかと思うわけです。

慶應義塾の中の社会教育

最後に、私が普段関わっている教員養成の仕事について少し触れたいと思います。

先ほど言いましたように、私が社会教育という言葉を知ったのは学生時代に教職課程を履修していた時のことです。教職課程の中に社会教育という講義がある大学は決して多くないと思います。非常に珍しいと言ってもいいでしょう。これは少なくとも福澤という人物が初めて社会教育という言葉を用いて、以来、慶應義塾の中で単に伝統として受け継がれているということなのかもしれません。しかし、それは学校教育というものを相対化する上で、非常に重要な意味を持っていると言ってよいと思います。

今、社会教育の専門職である社会教育主事は社会教育士と称することができるようになっています。この社会教育士という称号は、3年ほど前に「人口減少時代の新しい地域づくりに向けた社会教育の振興方策について」という中央教育審議会の答申で提起されました。そこには、社会教育士と教師との関係が次のように述べられています。

「教師や教職課程の学生に対し、社会教育主事講習の受講や社会教育主事養成課程における科目の履修、社会教育士の取得を推奨する。社会教育の専門的人材に求められるコーディネート能力、ファシリテーション能力は、『社会に開かれた教育課程』を実現する上で教師にも必要な能力であると考えられる。」

慶應義塾ではコーディネート能力などの教育方法上の問題にとどまらず、もっと広い意味で、福澤が主張するような社会教育マインドというものを持った教師が必要であると考えています。こうした視点からも、社会教育というものは教職課程にとって非常に重要な科目だと私は考えています。

教員の養成をめぐる現在の状況はなかなか厳しく、国が定める必修科目は多くなる一方で、養成の現場における選択の幅はどんどん狭められているのが実情です。しかし、ここまでお話ししたように、「社会教育」という日本独自の考え方の根本には、福澤諭吉という人が関わっていた。そうであるからこそ、慶應義塾の中では社会教育という授業を、教職課程を含めてこれからも存続していかなければいけないのではないかと思うのです。

本日はご清聴有り難うございました。

(本稿は、2021年1月10日に三田キャンパス西校舎ホールで行われ、オンラインで同時中継された第186回福澤先生誕生記念会での記念講演をもとに構成したものです。なお引用文について、読みやすさを考慮し、一部表記を改めたところもあります。)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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