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【講演録】福澤諭吉と社会教育

2021/03/11

「修身要領」と地方巡回講演

大学院に入ってから慶應義塾と社会教育との関係を調べるなかで、大正13年に、当時の義塾理事の職にあった石田新太郎が成人教育協会という団体を立ち上げていることを知りました。石田は義塾で長い間幹事を務めた人物ですが、この協会では、慶應義塾の教授たちが外部組織と連携しながらチュートリアルクラスを展開するといったことを行っていました。義塾の関係者が関わってはいるのですが、慶應義塾の組織ではないのですね。しかし、今で言う大学拡張(ユニバーシティ・エクステンション)と呼ばれる活動です。

そのことに関心を持って調べたのですが、近代日本のユニバーシティ・エクステンションという切り口だと、出てくるのは早稲田の講義録ばかりで、まるで慶應が何もしていなかったように見えるのですが、慶應は明治40年代から「地方巡回講演」というものを積極的に行っていたことがわかりました。

この地方巡回講演というのは「修身要領」普及講演会というものが前身です。「修身要領」は明治32年から33年にかけてまとめられましたが、この普及講演会の後期には、「修身要領」の内容の普及だけではなくて、慶應義塾の中で育まれている学問内容を地方の一般の人たちに対して話をするということも行われ、明治41年からは地方巡回講演という形で、春休みとか夏休みに塾の教員が積極的に全国を回る形で行われていたのです。

福澤諭吉の「社会教育」観

実は「修身要領」普及講演会以前に、日本で最初に社会教育の語を冠した書物を著した塾員がいました。それが明治25年に『社会教育論』を出版した山名次郎です。

北海道尋常師範学校の校長を務めていた山名は、『北海道教育会雑誌』や『交詢雑誌』に「社会教育」に関する論文を寄稿していました。

福澤は『交詢雑誌』に掲載された山名の論文を読んで、それを『時事新報』に掲載してはどうかと勧めたようです。しかし、山名は単行本として刊行する考えがあったようで、それを断っているのですが、重要なのは、福澤が山名の『社会教育論』に一定の評価を与えていたことです。

では、そもそも福澤当人は社会教育というものをどのように考えていたのか。それを少し時代をさかのぼって見ていきたいと思います。

冒頭で述べたように、福澤は日本で「社会教育」という言葉を使った最初の人物ではないかと私は思っています。それが窺われるのが明治10年に開かれた三田演説会での演説です。

「人間(じんかん)社会教育(学校の教育のみをいうにあらず)の要は、一事にても人をして早く実事に当たらしむるにあり」(「空論止む可らず」、『福澤文集二編』)

この部分は、例えば、工業の話を100回聞くよりも、一度家を建てた大工のほうが物事がよく分かっているといった主旨の発言として読むことができると思いますが、ここで福澤は「人間(じんかん)社会教育」という言葉を使う。これこそが「社会教育」の最初の用例だと言ってもよいと思います。

なかには、「人間社会教育」は「社会教育」と意味が違うといった意見もあるようですが、ここでの「人間社会」とは、福澤が「人間(じんかん)交際」と呼んでいたことと同じであると考えて間違いないでしょう。『学問のすゝめ』や『文明論之概略』(明治8年)では、Society の訳語として「人間交際」という言葉のほうが多く使われています。福澤の著書で「社会」という言葉が初めて登場するのは『学問のすゝめ』の最後の編である17編(明治9年)で、明治10年の演説の頃は、「人間交際」から「社会」への過渡期に当たると考えられます。

したがって「人間社会教育」という言葉は基本的に「社会教育」と読み替えられるので、社会教育を唱えた最初であったと言えるでしょう。福澤にとって社会教育とは、社会経験に基づく、ある意味で自己教育というものを意味していたと考えられます。

公開講座の先駆け

当時の社会教育は、学校教育を普及させるという役割がありましたが、福澤は社会教育という分野が必ずしも学校に従属するものであるとは考えていなかったようです。そうしたことが窺われるのが、昭和18年、戦時中に企画された『福澤選集』の編纂にあたっていた小林澄兄(すみえ)さんによる第六巻『福澤諭吉教育論集』の解説文の中の次の一文です。

「先生は学校教育よりも、むしろ家庭教育、社会教育に重きを置き、ことに社会が『大教場』であることを述べ、社会にみなぎる気風、または公議輿論(こうぎよろん)のごときものが教育の中心勢力たるべきものであることを主張したのであった。先生は、社会教育なる語を一度も用いなかったようであるが(後略)」

この『福澤選集』は、全12巻が考えられていたのですが、戦時下のため、実際に刊行されたのは『経済論集』のみでした。『教育論集』は編まれていたものの結局刊行されず、この一文は戦後、小林さんが出版した『福澤諭吉と新教育』に収録されています。

今引用した最後の「用いなかったようであるが」という部分については、そうではなくて、すでに見たように実際に用いているのですが、いずれにせよこうした記述からも、福澤諭吉にとって社会教育とは非常に重要な領域、あるいは概念だったと思います。

実際、福澤は現在で言うところの社会教育活動に熱心に取り組んでいました。明治11年には慶應義塾の中で講義所というものが始まり、そこでは最初に福澤が『文明論之概略』の講義をしています。その講義を塾生は無料で聞けるのですが、塾外の人も1円の聴講料を払えばそれを聴講できるようにしました。今で言う公開講座のようなものですね。

それ以前から続いていた三田演説会も、三田演説館ができて外部からも聴講者が訪れるようになりましたので、慶應義塾は非常に早い段階から、社会教育的な役割を担っていたと言えると思います。

明六社と交詢社の役割

塾外に目を向けると、福澤もメンバーの一人だった明六社は、知識人のソサエティで、知識人が集まって意見を交換し、知を広め、識を明らかにすることを目標にして定例会を開いていました。そしてそれを『明六雑誌』に掲載して地方にも積極的に発信していたわけです。

また、明六社だけではなく、明治13年に設立された交詢社も基本的にはそれと同じような構造を持っていて、「人間社会をもって一場の学校と認むべきは事実の示すところなれども、交詢社はあたかもこの学校に規律を設けて教授法を便利にしたもの」と福澤は言い、交詢社が教育の場であるということを明確に示しています。

福澤は交詢社のような社会の中のアソシエーションを通じ、そこに属するメンバーが相互に教育的機能を果たしていくことに期待していました。そして交詢社の中だけでなく、外部向けの講演会を積極的に行って、地方講演に出かけたりもしていました。そのようにして、交詢社内で議論したことを世に広めていくことを考えていたわけです。

私的な結社が担う社会教育機能

先ほど触れた山名次郎は、交詢社の集まりの中で「社会教育」を唱え、『交詢雑誌』などに寄せた論考の中で、「社会教育と国家教育は別のものである」というようなことを言っています。これはどういうことかと言うと、今、学校を含めて教育というものを国家がリードしているが、そのような国家教育だけでは駄目である、社会がもっと教育機能を持たなければならない、というのが山名の主張でした。国家教育だけでは、完全な教育を実現できない、完全な教育には国家教育とは別に社会教育が必要であるとも言っています。山名の主張する社会教育とは、社会の中で様々な私的結社がつくられ、その中で教育が行われることを重視するものでした。

山名のこうした論を高く評価していた福澤も、明六社や交詢社の活動を通じて私的な結社の中で議論を交わし、その成果を外に向かって発信していくことの重要性を考えていたと言っていいでしょう。

しかし、福澤は山名とは違い、国家教育という言葉は使っていません。この違いはおそらく山名が薩摩の出身だったからではないかと思います。山名には福澤以外に尊敬していた人物がもう1人いました。初代文部大臣を務めた同郷の森有礼(ありのり)です。その森はしばしば国家教育という言葉を使っていたので、それに影響されてのことだろうと思います。もちろん、福澤が日本国という国家を重視していたことは、『文明論之概略』を読めば分かりますが、福澤の言い方では、山名の言う国家教育は、官による教育、あるいは政府による教育となるのではないかと思います。

福澤は基本的に教育あるいは学問を官から切り離すことを提言しています。とくに明治10年代には『学問之独立』の中で、次のように記しています。

「学問と政治と分離すること国の為に果して大切なるものなりとせば、我輩は今の日本の政治より今の日本の学問を分離せしめんことを祈る者なり」

「我輩の持論は、今の文部省又は工部省の学校を本省より分離して一旦帝室の御有(ぎょゆう)と為(な)し、更に之(こ)れを民間の有志有識者に附与して共同私有私立学校の体を成さしめ(後略)」

ここで福澤は、学校を文部省などから切り離し、共同私立の学校にすることを主張しているのです。このように、福澤は学校教育を政府から独立した私的な結社が担っていくべきだと考えていました。そして、社会教育についても山名の社会教育論を評価していたことからもわかるように、政府の外にある私的な結社が担っていくものと考えていたと思われるのです。福澤にとって教育とは、学校教育も含めて国家とは別の社会が行う社会教育であったと言ってよいのではないかと思います。

その意味では、慶應義塾は学校であるわけですが、社中とも称されるように結社としての側面を持っていました。それは現代の社会教育の概念とは違うものですが、学校でありながら、社会教育機能も担っていたと考えられるわけです。

現代の社会教育は社会教育法の下では領域概念、つまり学校の外側の領域を示す概念として考えられていますが、これを機能という側面から見たとき、慶應義塾のような私的な結社が政府、官とは独立した形で展開する教育として社会教育を捉え直すことができるのではないかと思います。

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