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【講演録】福澤諭吉と社会教育

2021/03/11

  • 米山 光儀(よねやま みつのり)

    慶應義塾大学教職課程センター教授

ただ今ご紹介にあずかりました米山です。福澤先生の186回目の誕生日という記念すべき日に講演をさせていただく機会を頂戴し、大変光栄に存じます。本日は福澤諭吉と慶應義塾の社会教育活動を中心にお話しさせていただきたいと思います。

さて、福澤先生の誕生記念会ですので「福澤先生」と呼ぼうか、普段どおりに「福澤」または「福澤諭吉」と呼ぼうか迷いましたが、大学の中で福澤諭吉という人物を語る時には、やはり歴史的、学問的に見なければいけないところもありますので、失礼を承知で「福澤」と呼ばせていただこうと思います。この講演では最終的に福澤諭吉の現代的な意味や可能性について語れればと考えています。

「社会教育」という言葉

まず、論題となっている「社会教育」という語ですが、これは最近あまり耳にすることのない言葉ではないかと思います。「社会教育」を直訳するとSocial Education となりますが、英語圏では非常に特殊な言葉で、おそらくそのままではほとんど意味が通じないと思います。むしろ英国などで一般的なのはAdult Education やContinuing Education という言葉です。Social Education は、日本の社会教育の歴史を研究していたノッティンガム大学のジェームズ・E・トーマス教授が、自著Learning Democracyin Japan: The Social Education in Japanese Adults で用いていますが、これはきわめてめずらしい例で、「社会教育」という表現は日本独自のものと言ってもよいのではないかと思います。

この言葉が日本において最近聞かれなくなった理由の一つは、「社会教育」という言葉の、近代における歴史的な変遷に関わりがあります。この点に触れると、社会教育論の授業のようになってしまいますが、実は「社会教育」という言葉を使ったきわめて早い例、あるいは最初の例が福澤諭吉だったと言えるのではないかと思います。

日本では社会教育という言葉そのものは明治初期には使われていました。福澤やその門下生が多く集った交詢社でも使われていますし、他にもキリスト教系のメディアなどでも用例を見ることができます。

しかし、「社会」という部分が社会主義を連想させるということから、明治中期以降は政府にとってあまり望ましい言葉ではなかったようで、「通俗教育」という呼び名が使われるようになります。

それが、大正期に入るとまた使われるようになってきます。大正13年に文部省の普通学務局に「社会教育課」が設けられ、昭和に入ると「社会教育局」という部局も誕生しました。大正期に再び「社会教育」という言葉が復活した背景には、おそらく「社会事業」というものが注目されたことと関係があると思います。経済的救済だけではなく、教育的救済ということを推し進めようとして「社会教育」といった言葉が再び用いられるようになったようです。

しかし、昭和になって設置された社会教育局は、第2次世界大戦下に解体され、教化局や教学局といった部署に分かれていきました。それが戦後に再び社会教育局が設置され、社会教育法が制定されました。この法律は何度か改正されましたが、現在も存在しています。

社会教育から生涯学習へ

しかし、1960年代にユネスコで「生涯教育(Lifelong Education)」というものが提唱されるようになると、徐々に社会教育という言葉はその言葉に置き換えられていきま す。1980年代には臨時教育審議会が「生涯学習」という言葉を用いるようになり、これが一般化していきます。社会教育局も生涯学習局へと変わり、現在は総合教育政策局になっています。地方の教育行政においても社会教育課が生涯学習課へと変わるなどして、社会教育という言葉はあまり耳にしなくなってきています。

ちなみに社会教育法では、「社会教育」は次のように定義されています。

「『社会教育』とは、学校教育法又は就学前の子どもに関する教育、保育等の総合的な提供の推進に関する法律に基づき、学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動(体育及びレクリエーションの活動を含む。)をいう」

つまり、学校教育外の教育を社会教育と呼んでいると考えてよいと思います。

社会教育との出会い

実は、恥ずかしながら私自身も大学3年生まで「社会教育」という言葉を知らずに過ごしてきました。1970年代ですから、まだ社会教育という言葉が比較的よく使われていた時期だったと思います。私がこの言葉を知ったのは経済学部3年生で教職課程を履修した時でした。今は教職課程センターで中・高の教員を養成していますが、教職課程はかつて文学部の中にあり、担当の教員もわずか2人でした。

教職課程には「教育原理」という必修科目があり、私の学生時代はこの授業が毎週土曜日の3限目に行われていました。土曜日の午後まで授業を受けるのはあまり気乗りしなかったのですが、せっかく三田に来るのだから、と当時4限目に割り当てられていた同じ教職課程の選択科目も受けることにしました。それが「社会教育」という授業でした。

今でも覚えていますが、まだ建て替えられる前の南校舎で、3限目から引き続き松本憲(あきら)さんが担当されていました。土曜日の午後らしいとても緩い雰囲気の中で、私は社会教育とは何なのかも知らずにこの授業を受けていたのですが、松本さんは近代日本の社会教育の歴史を中心に、様々な事例を交えてお話しされていました。授業ではレポート課題が出て、その中で大正期に行われていたことを調べたことが、私が教育史を専門とするようになったきっかけでした。

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