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八十数年越しの展示計画──福澤諭吉記念慶應義塾史展示館開設へ

2020/09/03

頓挫、頓挫、また頓挫

ところで、これまでに福澤・慶應義塾史を三田で常設展示しようという意見はなかったわけではない。いや、たびたびあった。というよりこれほど廃案を繰り返した案件もないのではないか。

私の知る限り、それは小泉信三塾長時代の1937年頃、最初に計画され、そのための大口寄付や福澤諭吉旧邸の寄贈もあったが、戦時の物資統制で建設中止となり、福澤邸は戦災で焼失した。

1950年、福澤家から大量の福澤資料が義塾に寄託されたことを受けて、潮田江次塾長が展示施設へと発展させる収蔵庫の建設を計画。しかし研究室不足解消が優先され、第2研究室(旧万来舎)に変更された。この時、福澤邸の焼け跡(福澤公園)が将来の予定地として残された。

1958年、創立100年記念の福澤展を見た三越社長岩瀬英一郎(塾員)は、記念館の建設費と資料整理・維持費の一括寄付を申し出、福澤公園への建設計画が着手された。三田会からの大口寄付もあったが、岩瀬の急逝により頓挫。

1983年、創立125年・福澤生誕150年を機として展示施設を求める声が再燃するなか、従来の塾史資料室が福澤研究センターとして新発足した。その趣意書に「貴重な資料が、その保管に遺漏なき配慮が払われているかどうか、また福澤研究の上での便宜供与の体制が整っているかどうか、さらに塾内外への所蔵資料の公開展示が適切に実施されているかどうか……福澤研究センターの設立を意図したのも、それらの不備を補うためである」とある。しかし結局展示や公開の体制は整わなかった。

1997年には鳥居塾長下でバーチャルミュージアム構想が検討され、実物展示を要望する動きがあったが、どちらも立ち消えとなった。

2008年の創立150年に当たり、新南校舎内に展示機能を収容する計画などがあったが、見送られた。

なぜ、いつも後回し?

これらの詳しい事情を書くだけでも数回の連載ができると思うが、それはまた機会を改めるとし、ではなぜこれほど慶應義塾に福澤・塾史の展示施設ができなかったのかを考えてみたい。これには大学として、あるいは慶應義塾としてのいくつかの理由があると思う。

まず、福澤の思想「独立自尊」から考えれば、福澤の思想を教えられることは自己矛盾になり、自分で紡ぎ出すべきものという意識が、塾内、特に大学には強いのではないか。

さらに大学という機関の性質として、ある種の権威となった「福澤」を評価するような態度は、何ごともシニカルに構えるほど学究の徒らしい大学において、肯んじ得ないものなのかもしれない。「福澤研究センター」などというと、御用機関か宗務所のように見られている。センターは近年、福澤を語る専門機関になってしまい、教職員一般に福澤を気軽に語り、書く雰囲気は、全くなくなってしまったように思う。

歴史研究者の視点から考えると、福澤は文字の人だと思われている。研究者にとって大事なものは、彼の書いた中身であり、精緻な福澤諭吉全集が存在する以上、そのテキストさえあれば良かった。語弊を恐れずにいえば、歴史研究者にとって「展示」はあくまでシロウト向けの見世物であって、学究的な行為ではないという意識があるように思う。

これらにはそれぞれ十分な理由があると思う。過去の文献を読むと、福澤であれば何でも万歳といった文章は少なくない。それを眉唾とみる感覚は、ぜひとも必要である。しかし、福澤を知らなければ批判もできない。おかしな言い方だが、福澤を知ることは、福澤への健全な疑念や批判精神の源になる。「信の世界に偽詐多く、疑の世界に真理多し」とは福澤の言葉だ。

さらに研究者の視点でいっても、今日は、状況が変わっている。歴史資料のデジタルアーカイブ化が進み、誰もが実物に触れることを知っている。そのなかで全集頼みの福澤研究は魅力に欠け、研究対象としての福澤のプレゼンスが低下し、それがひいては福澤・慶應義塾の歴史的プレゼンスを実際よりも下げていると思う。

そして何よりも、福澤はそれほど無価値なものではないと思うのである。慶應義塾は福澤なくして現在の慶應義塾ではない。それだけでなく、日本は福澤なくして現在の日本ではない。それを肯定的に見るにしても否定的に見るにしても、これ以上の教材はなく、これを公にしないことは教育・研究機関としての責任も可能性も放棄していると思う。

だから私はかつて、福澤諭吉の「安売り」が必要であると書いたことがある。もっと気軽に語られる身近な存在に戻すべきであると思う。あえて乱暴にいえば、神棚から下ろして使い倒さねばならない。宣伝として、ではない。知的錬磨の教材としてである。

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