【その他】
八十数年越しの展示計画──福澤諭吉記念慶應義塾史展示館開設へ
2020/09/03
慶應義塾と「世界の平和」「人類の文明」
慶應義塾を建て直すこと(は)……ひとり義塾のためばかりではない。日本を偽りなく民主化するためにはもとより、新日本の文教のためにも、それは一刻を争うことである。戦災と接収に施設の4分の3を失っておる慶應義塾を速やかに元の姿へ返すことは、ひいては世界の平和、人類の文明のためと申しても差し支えない。
この文章は、1947年、慶應義塾創立90年祭を開催するに当たっての趣意書の一節である。慶應義塾が復興することは、「世界の平和」のためであり「人類の文明」のためである、というのである。随分大きく出たな、と思われるだろうか。日本で最大の戦災を蒙ったとされる義塾は当時、教室も足らず、日々の授業さえままならない日常であった。それが世界平和というのだ。
しかし慶應義塾には、学問の発展こそが世の中を変えていくという「智」に対する信念があり、それを先導するのは誰でもなく義塾であるという、驚くほどの自負と自信のようなものを歴史的に持ち続けてきた。果たして、今もそれがあるだろうか。
福澤・塾史の展示の発端
三田の慶應義塾図書館旧館2階、かつての大閲覧室に、福澤諭吉の生涯と慶應義塾の160年にわたる歴史を紹介する「福澤諭吉記念慶應義塾史展示館」が来春開設されることとなった。私の知る限り、この計画が本格的に動き始めたのは、2015年の清家前塾長時代である。この年の3月、塾長をはじめ教職員11名がハーバード大学を訪問した。慶應義塾が現在の大学に繋がる高等教育機関として「大学部」を創立して125年を迎えたことを記念し、創立に多大な援助を与えてくれたハーバードに感謝を表するのが目的で、塾長のファウスト総長訪問からはじまり、塾長の記念講演会、夕食会などの機会が設けられた。
ところで、塾長講演と夕食会の間に、一行は大学文書館に案内され、慶應義塾とハーバードの縁を示す歴史文書の閲覧の機会を得た。そこには、慶應の大学部設立に際して、福澤諭吉が時のハーバード大エリオット総長に宛てて教師派遣を依頼した書簡もあった。この書簡があって、今日の慶應義塾大学がある。同大総長の手配により3人の米国人教師が来日、彼らを学部長に迎えて「慶應義塾大学部」が発足を見たのだ。
参加者は125年前の歴史を縁としてその場にいたのであるが、その縁を実物の証拠で目の当たりにし、実に深い感動を共有した。その訪問を伝える本誌の口絵には塾長が福澤書簡を閲覧中の写真や、資料の前で取った集合写真が掲載されている(2015年4月号)。
この時、慶應側の歴史資料はどうなっているのか、ということが話題になった。残念ながら1890年の大学部開設時の交渉記録は何一つ残っておらず、福澤・エリオット間の書簡は一方通行でしか読めない。しかし、同大学とのその後の太く深い関係を示す資料は、慶應の文書館の役割を持つ福澤研究センターに結構残っている、と末席に列していた私はムキになって説明した覚えがある。その副産物が本誌の同年5月号に書いた拙稿「慶應義塾史上のハーバード」である。
訪問団の一員であった駒村常任理事が同じ号に寄せた報告記事に次の一節がある。「……彼我の差を改めて教えられた。総長の演説原稿や書簡を広く保存し、極東の大学の資料まで所蔵するという恐るべきアーカイブへの情熱。アメリカの知的歴史の歩みそのものであるハーバードならではであるが、日本近代史のアイコンである福澤諭吉を擁する義塾としても、その足跡を系統立てて展覧するアーカイブがほしいところである」。
帰国からまもなくして、図書館旧館の耐震性の問題が浮上し、免震化が行われることが決定。これとセットで清家塾長は、塾史を展示する施設を旧館2階に設ける方針を打ち出し、その方針は現長谷山塾長に引き継がれた。
一方で、2017年にはセンチュリー文化財団から慶應義塾への所蔵美術品寄贈を基礎に、学術資料の展示・研究の場となる慶應義塾ミュージアム・コモンズ(KeMCo)の計画も決まり、こちらは三田通り沿いに新たに建物を建設することとなった。
こうして本年1月の長谷山塾長の新年の挨拶で「ツインタワー」と称された2つのミュージアム計画が進むこととなった。
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都倉 武之(とくら たけゆき)
慶應義塾福澤研究センター准教授