【新 慶應義塾豆百科】
山中山荘と山中地区
2025/05/30

山梨県の山中湖畔(南都留郡山中湖村平野)には体育会の山中山荘や図書館の山中資料センター、さらに健康保険組合のコテージがある。慶應義塾と山中地区との関係は1926(大正15)年10月にさかのぼる。当時、富士山麓土地株式会社の堀内良平社長から約1万坪、地元有志からと合わせて約2万坪を運動場用地として寄付されたのである。
それを受けて義塾では設備に着手し、翌夏には仮運動場と天幕宿舎を設けて蹴球部と弓術部が合宿を行い、秋には浴場、艇庫、井戸も作られた。1928(昭和3)年には宿舎の一部も完成し、山中山荘と名づけ、7月22日に山中湖運動場開場記念茶話会が開催された。当日は生憎の雨天だったが大盛会だったそうだ。この年、山中湖で夏季を過ごした教員学生は極めて多数と記録にある。
堀内良平は甲府市と富士市の間に鉄道(現JR身延線)の敷設を計画し、1928年に実現したことをはじめ、富士山麓の開発に尽力した人物で、山中湖周辺の観光地としての活性化を狙い、学生を誘致することがそこにつながると考えた。そこで大学寮建築の働きかけを行った。息子が義塾出身であったことが、前述の寄付につながったと思われる。義塾だけでなく、東京大学、東京文理科大学(現筑波大学)等々も寮建築を行い、夏季は賑わいをみせた。「富士五湖」の名づけ親も良平であった。1927年、新聞社主催の「日本新八景」湖沼の部にこの名称で応募し、周辺に投票の働きかけをして見事1位となり、記事や映画で全国に富士五湖は紹介されることとなった。
山中山荘は開設10周年の1936年に三田の3号館を移築し、戦後1951年には別館木造2階建てを改修、また従来の物置を女子寮に改修した。翌年には本館東側に木造平屋の女子寮を増設、さらに翌年には環境保持の見地から隣接の土地7,000坪を購入した。体育会各部のトレーニングの場としてだけでなく、一般塾生の利用、文化団体連盟のサークルの新入生歓迎合宿などにも利用され、湖畔でキャンプファイヤーを囲んだ学生も多い。
1982年、義塾創立125年事業で、半世紀を経て老朽化した山中山荘の再建が図られた。200名収容の合宿棟やグラウンドの増設などがなされ、現在に至っており夏季には蹴球部を中心に一貫教育校も利用している。
1994年には敷地内に、健保のコテージが開業し、50万冊収容可の図書館の資料センター1号棟が開設、その後2016年には2号棟も運用開始した。
また、2007年には山梨県及び富士吉田市と義塾の連携協定が結ばれ、富士山麓の森林文化を基軸とする地域資源を活かす取組みが始まった。2013年、富士山に浸み込んだバナジウムを多く含んだ軟水を活かした「慶應の水」が誕生した。
(元広報室長 石黒敦子)
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