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【義塾を訪れた外国人】
ジョン・ロックフェラー三世:義塾を訪れた外国人

2020/06/09

  • 佐野 陽子(さの ようこ)

    慶應義塾大学名誉教授

社会事業を目的とする財団活動

世界の非営利財団の数は多いが、規模の大きい財団はアメリカに集中している。

よく知られているのは、2000年設立の「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」(シアトル市)で、2006年以降は投資王W・バフェットの協力を得て世界一の規模を誇っている。

財団の歴史をたどると、古くは、1913年設立の「ロックフェラー財団」(ニューヨーク州)がある。石油王ジョン・ロックフェラーによって設立。さらに金融王の弟も財団に参加。慈善活動を行う、アメリカの巨大企業財団の先駆けとなった。その後、数々の大企業財団が誕生したが、1936年設立の「フォード財団」(ニューヨーク市)は、今やその資産規模でロックフェラー財団をはるかに抜いて、全米2位と言われている。

義塾と「ロックフェラー財団」

ロックフェラー財団は、設立当初より慈善活動で世界一の実績を挙げてきたが、アメリカにおいて大学との関わりが強かった。国境を越えて、私立の慶應義塾に真っ先に助成の手が差し伸べられたのは医学部の予防医学校舎の建設であった。塾長・林毅陸の、「治療より予防をもって優れりとする」を実現したのである。地上4階・地下1階の堅牢な校舎が完成したのは1929(昭和4)年。総工費の大部分はロックフェラー財団からの寄付によった。この建物は堅牢で、1945年5月の大空襲で病院の多くが焼失したときも、北里図書館と並んで焼け残り、スタッフの奮闘により避難できた入院患者と教職員の拠りどころとなった。

慶應義塾が第2次大戦後、真っ先にアメリカからの援助を受けたのは、ロックフェラー財団の援助による図書館学科(JLS:日本図書館学校)の創設である。当時アメリカ側は、民主主義化を進めるために日本の大学には図書館学科の設立が重要と考えた。それまで日本では図書館員を養成する教育機関もなく、利用者へのサービスを研究する場もなかった。

当時のアメリカの図書館学の権威である、イリノイ大学図書館長が、候補となった東京大学、京都大学、早稲田大学、慶應義塾大学を視察。さらに翌年、ワシントン大学図書館学科長ロバート・L・ギトラー教授が来日調査し、その際、『福翁自伝』の英訳を読み感銘を受け、慶應義塾に51年4月、図書館学科を開設することになった(本誌2016年11月号「義塾を訪れた外国人」参照)。

産業研究所の設立へ

塾長・奥井復太郎は、1958(昭和33)年の義塾創立百年の記念事業を考えていた。かねてから塾内に、経営と労働の問題に関して研究所設立の気運があり、学外からの関心も高まっていた。57年秋、奥井塾長一行はこの問題をもって渡米し、ジョン・ロックフェラー三世と懇談。その結果、1958年夏、プリンストン大学ハービソン教授、続いて59年1月にカリフォルニア大学カー総長が来日の際、慶應義塾を訪れ、研究所の設立について意見の交換を行うことができた。両氏とも、この分野の最高権威者であると同時に、大学の研究機関の設立・運営についても経験が豊富であった。

その結果、学内6学部の専門的研究者および学外の学識者をもって研究所設立の準備委員会を起ち上げ、大学評議会・義塾理事会・義塾評議員会の議を経て、59年9月1日に「産業研究所」が設立された。場所は、新築の三田・南校舎5階。初代所長は経済学部教授の藤林敬三で、関係者とともに産業界・労働界の各方面を歴訪して周知徹底に努めた。その結果、各方面から絶大なサポートを得ることができた。

1960年2月19日には、ジョン・ロックフェラー三世(ロックフェラー財団)が来訪、奥井塾長、町田・松本両常任理事と会談。さらに当日開催中の産業研究所・第4回運営委員会に出席。所長および運営委員と懇談した後、所内を縦覧した(筆者は当時、産業研究所助手予定者)。

こうして産業研究所を軸に、海外の大学や研究機関との人的交流が盛んになった。その一環として、フォード財団との交流も始まり、60年9月には、エバートン、バーネット両氏が産業研究所を訪れ、所長らと懇談。これが契機となり、イリノイ大学との交流が深まった。

1960年代に限れば、ロックフェラー財団より62年から3年間4万5千ドルの研究資金が交付され、フォード財団からは63年から5年間35万ドルの人的交流資金援助を受けた。後者は、慶應義塾大学産業研究所とイリノイ大学労使関係研究所が拠点となり、研究の国際交流を深めようとするものであった。

産業研究所を訪れたジョン・ロックフェラー三世
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