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【義塾を訪れた外国人】
ロバート・ギトラー:義塾を訪れた外国人

2016/11/11

  • 髙山 正也(たかやま まさや)

    慶應義塾大学名誉教授

JLS創設の意図

時は占領下の日本に遡る。占領軍は「日本の民主化」の美辞麗句の下に日本の伝統・文化の否定という占領政策を進めた。その占領政策の1つが図書館の振興であった。彼らの脳裏には、米国型の公共図書館があり、これは米国公民の有力な情報源であった。これを日本でも実践しようとしたところ1つの大きな障害にぶつかった。その障害とは日本には有能な司書がほとんどいないことであった。そこで、占領軍は有能な司書養成を行う日本図書館学校(JapanLibrary School; 略称JLS)を創ることを企図した。この案は占領軍(GHQ)、米国陸軍省(当時)から米国図書館協会(American Library Association; ALA)に送られ、ALAは当時、ワシントン大学の図書館学校Dean(学科主任)であったロバート・L・ギトラー(Robert L.Gitler)に日本図書館学校を託した。

ギトラーは1909年5月にニューヨーク市で生まれ、カリフォルニア州のオークランドで成長した。カリフォルニア大学(バークレー)を卒業し、図書館の道に入り、1942年から45年まで兵役を海軍士官として務めた。復員後、ワシントン大学の図書館学校Dean やコロンビア大学の訪問教授を務めると共に、ALAの図書館学科認定委員会事務局長として、全米の図書館学教育や最先端の図書館学情報を入手しうる立場にあった。そのギトラーがJLSの学科主任に選ばれた。

ロバート・ギトラーの初来日は1950年12月30日であった。来日に先立ち、彼はALAの事務局長からJLSの教授メンバーを選考することと、JLSを日本のどの大学に設置するかを決定する任務を与えられていた。教授メンバーはワシントン大学図書館学科在職中に、女性3人、男性1人の教員を選んだ。この計5人の教授陣は米国の図書館学の教育と実践の両面で練達の人たちであった。この教授陣に加え、図書館学校での教育に不可欠な図書館学科図書室の司書として、教え子でもあったフィリス・ジーン・テーラー嬢を選んだ。彼女は三田に着任するとたちまち、学生や若手教員の間で、アイドルとなった。

清岡と『福翁自伝』との出会い

そのギトラーが初めて来塾したのは1951年の1月10日(福澤誕生記念日)であった。彼の回想録によると、キャンパスでは前夜来の積雪が朝陽に美しく照らされていた、と言うが、記録によれば10日は終日雪曇りであった。これは、ギトラーの心象風景に朝陽に光り輝く慶應(三田)キャンパス像となって、記憶されたためであろう。

この日、彼は塾監局で数人の慶應の重要人物と会った。その1人が清岡暎一外事部長(当時)で、また塾の学事顧問や常任理事を務めた橋本孝教授にも会った。清岡は米国コーネル大学に学んだ、福澤先生の孫であり、米国の大学教育の実態が理解でき、英語での会話にも堪能で、落ち着いた頭脳明晰な人であり、橋本教授は活発で頭脳の回転の速い機転のきく人である、とはギトラーの評価である。この日ギトラーはその後も深い交流が続く清岡から1冊の本を贈られた。それは清岡自らが訳した『福翁自伝』の英訳版であった。ギトラーは『自伝』からくみ取った福澤思想に深く共鳴した。「『福翁自伝』を読んだ時には、恰あたかもモルモン教書翻訳者のジョセフ・スミスがソールト・レーク市の地に来た時に〝モルモン教会をどこに建てるべきか。この地こそその場所である〟と言ったのと同じ気分になった。」と回想している。後にギトラーはJLS設置大学決定の説明資料として、最終候補の慶應義塾、東京、京都の3大学について16項目の採点表を公表しているが、『福翁自伝』を読んだ時点で既に結論は出ていたとも言える。

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