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【義塾を訪れた外国人】
ジョン・ロックフェラー三世:義塾を訪れた外国人

2020/06/09

産業研究所設立の意義

第2次世界大戦後、どこの国でも労働運動が活発となり、経営との対立が大争議になることがあり、法律や制度が大学で議論されることが多くなった。とくにアメリカでは、争議の調停などに研究者が関わることが多く、イリノイ大学をはじめ、労使関係専門の研究所が大学に設立された(産業研究所の藤林敬三所長は、日本の労使調停機関である中央労働委員会の4代目会長であった)。ただし象牙の塔の伝統が強い日本では、職場レベルの調停や仲裁に大学の研究者が参加することはほとんどなかった。

産業研究所の設立の趣旨は、経営側と労働側の双方から信頼を得られる研究を遂行すること。そしてアメリカの研究所設立・運営の仕方をその道の権威と十分交流していた産業研究所のリーダーたちは、当時、稀なことに労使双方より寄付を集めた。

産業研究所が当時、革新的であった理由の第1は、学外から、会費という形で運営費を調達したことである。それは実業界の企業と労働組合など、100機関を超えるほどであった。第2は、学内において、6学部を横断して課題中心に研究者を組織したこと。当時のタテワリの大学では信じられないことであった。第3に、研究所の成果を支持者に還元するために、出版活動やセミナーなどを行い、委託研究にも応じたことである。当時、企業との距離があまりに近いと「御用学者」と呼ばれたが、産業研究所の目標は、長期的に役に立つ御用学者であろうとした。

第4は、大学人としてもっとも期待された、社会科学における未知の世界の探求だったろう。日本の大学人は、敗戦の結果、自らを「井の中の蛙」と位置付けて、海外、とくに米英独の社会科学を輸入した。他方、アメリカの研究者にとって、アジア、とくに島国・日本の異文化は魅力的な研究対象であった。

なかでも有名な業績は、ジェームス・C・アベグレンの『日本的経営論』(1958年)だ。終身雇用と年功序列と企業内組合が、「日本的経営」を支える三大支柱であるという説は、今もなお、色褪せない。さらにアベグレンの研究手法が、戦後の日本の大企業19社と小企業34社の訪問調査であったこと。当時、このような実態調査をする研究者は日本にいなかった。この出版により、「終身雇用」という用語が定着したのである。

イリノイ大学労使関係研究所との共同研究

数々の、そして内外の協力を得ながら、産業研究所の研究業績は徐々に成果を挙げていった。イリノイ大学の教授らは、日本における共同実態調査をするべく、産業研究所の研究者と頻繁に研究会を開いた。

そのとき印象的だったことは、日本側の説明に、二言目には「具体的に……」という注文がつくこと。他は英語でのやりとりだが、ここだけ「グータイテキニ」と日本語でやられる。日本の社会科学の議論が、得てして空理空論になることは警戒していたが、こちらも経験科学では日本の代表格を自負していたのに、やはり「そもそも論」になってしまうのだろうと反省。でもこのようなやりとりこそ、共同研究の意義であったろう。

イリノイ勢の目標は、日本の労使関係の実態調査をすること。それには日本の研究者の協力がなければ難しい。そこで、産業研究所の労働関係のグループがその任にあたることになった。ちょうど、九州の三井三池炭鉱の争議が1960年11月に一応解決をしたところで、イリノイの研究者は翌年3月に労働組合員の面接調査をしたいというのである。

この争議は、労働組合が2つに割れて、2年間にわたり荒れていた、いわくつき。会社にとって、交渉する労働組合が1つでなく、反対分子が会社寄りの第二組合をつくると、解決が難しくなることが多い。この場合、強大だった組合が割れたため、争議はなかなか解決せず、組合同士の反目もひどかった。同じ社宅に住む組合員でも、第一組合と第二組合とでは家族同士も反目するという有様。そのような状態の中、両組合員それぞれの面接調査をするという。

組合員の面接調査すら初めての産業研究所側にとって、度肝を抜くような計画だった。イリノイ-慶應の調査チームをつくり、三池炭鉱三川坑の炭鉱住宅に、第一組合、第二組合、そして会社側、と手分けして初めての面接調査を行った(結果は、二瓶恭光『草の根の団結:三池における人間の記録』日本労働協会、1971年参照)。このような労働組合員の意識調査は日本でも初めてのもので、当時の日本ではとても考えられなかった。会社側の労務担当者らは、相手の竹槍を防ぐため、週刊誌で鎧を作ったという逸話もある。

1960年代の産業研究所の活動は何を語るか

アメリカの大学の研究所を下敷きにして発足した産業研究所だが、60年経ってみると時代の流れを感じざるを得ない。というのは、日本の大学にしろ、研究機関にしろ、企業にしろ、産業にしろ、急速な勢いで変化し、発展したのだ。その結果、新しいと思ってやったことは、「当たり前」になる。研究機関そのものが大学以外にも急速に増え、社会のニーズに応える態勢になった。日本で初めてであった調査・実証研究は当たり前となり、マイクロデータや国際比較データも日常茶飯事。AIの応用を含めたら、今後の発展はどこまで行くか。社会全体が速度をもって対応しなければならない。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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