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【義塾を訪れた外国人】
張公権:義塾を訪れた外国人

2018/08/09

戦後東北部接収と叙勲

日中戦争終結後、張公権は国民政府主席東北行営経済委員会主任委員に任命され、東北部の接収、対ソ交渉を担当することになった。張は満洲中央銀行理事の長谷川長治と森恒次郎を顧問に任命し、同銀行の整理に着手させた。また、満州重工業開発株式会社総裁・高碕達之助と満鉄総裁・山崎元幹らを顧問として任命し、日本人の引き揚げと留用、および東北部再建の立案への協力を求めた。張公権の厚意で高碕と山崎が戦犯リストから外された。そのような背景があって、1970年8月に、張公権は日本政府より勲一等瑞宝章を授与される。戦後、張公権がたびたび来日して財界人と意見交換して、日本の経済金融のために裨益したことも叙勲の理由の1つになっている。

母国を離れ、経済学者に

1947年3月に張公権は中央銀行総裁に就任した。しかし、インフレーションを阻止できなかった責任を取って、48年5月に辞任した。この時期、国民党軍が共産党軍との内戦でますます劣勢に立たされた。49年4月、張はついに母国を離れて、オーストラリアに渡り、オーストラリア国立大学で教育研究に従事することになった。

1953年に張公権はアメリカ・ロサンゼルスにあるロヨラ大学に移り、中国経済と日本経済などについて講義することになった。58年にThe inflationary spiral : the experience in China, 1939-1950がマサチューセッツ工科大学出版社より刊行され、高く評価された。61年にスタンフォード大学フーバー研究所研究員として招聘され、74年まで勤めた。

名誉博士号の授与

戦後、張公権がたびたび来日していた。その際、よく母校慶應義塾を訪ね、時の塾長をはじめ、教員らと会談し、積極的に学術交流を行った。いくつか事例を挙げよう。1966年11月に永澤邦男塾長をはじめ、国際センター所長寺尾琢磨教授、常任理事山本登教授らと会談。70年7月に佐藤朔塾長、大熊一郎常任理事、中鉢正美経済学部長、経済学部山本登教授、同平野絢子教授と会食。8月に平野絢子教授のインタビューに応じて中国の銀行制度の近代化と慶應義塾について語る。10月に経済学部長中鉢正美教授の招聘で“Keynesian Economics, the New Economics, and Beyond the New Economics”をテーマとして英語で講演。71年に論文“The Strategy of Economic Development in Communist China: Retrospective and Perspective”がKeio Economic Studies, Vol.8, No.1に掲載。同年6月に慶應経済学会で「アメリカ経済の今後の趨勢」を題として講演。

1972年9月30日に張公権が再び三田の山に降り立った。法学博士の名誉博士称号授与式に出席するためであった。式典では、佐藤朔塾長が推薦理由を読み上げた。慶應義塾が中国人に授与した最初の名誉博士号で、長年の夢がついにかなったのである。それ以降も、張公権は慶應義塾とフーバー研究所との学術交流に尽力し続けた。

1979年10月13日に張公権はスタンフォード大学付属病院で逝去した。享年91。

筆者は2008年から2010年まで塾派遣留学でスタンフォード大学に留学した。フーバー研究所アーカイブで閲覧した「張公権文書」には慶應義塾関係者の名刺が数多く保管されていた。張公権の義塾への思いがしみじみと感じられた次第である。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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