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【義塾を訪れた外国人】
張公権:義塾を訪れた外国人

2018/08/09

  • 段 瑞聡(だん ずいそう)

    慶應義塾大学商学部教授

明治日本に憧れて

明治維新を経て近代国家になった日本は、中国にとっては学ぶべき手本であった。日清戦争以降、数多くの中国人留学生が日本にやってきた。張公権(ちょうこうけん)はその一人である。

張公権の本名は嘉璈(かごう)で、公権は号である。1889年11月13日に中国江蘇省嘉定県(現在上海市嘉定区)の漢方医の家に生まれた。兄弟は8人、姉妹は4人、公権は兄弟の中で4番目になる。幼少期より私塾で四書五経などを学ぶが、1901年よりフランス語を勉強し始める。名前のローマ字表記はkia-ngauになっているが、それはフランス語の先生が嘉定の方言に基づいてフランス語表記にしたものである。

1902年に兄の君勱(くんばい)の後を追い、上海にある江南製造局に付設された広方言館に入学し、約2年間在学後、宝山県学堂を経て、1905年に北京高等工業学堂に進学した。そこで出会った同郷の唐文治先生の支援を得て、日本留学を決意した。

慶應義塾に留学

1906年、張公権が日本に留学のために来た。その前年に兄の君勱がすでに早稲田大学に進学していた。同年9月、張は傍聴生として慶應義塾予科に入学し、1908年4月に本科政治科に入学した。しかし、授業料を納められなかったため、翌年4月に除籍された。通算2年半ほど慶應義塾に在学したことになる。

では、張公権は慶應義塾で何を学び、成績はいかほどだったのか。福澤研究センターで保管されている1907年度「予科第2学年G組成績表」によると、張公権が履修した科目は会話、英訳、訳解、佛語、歴史、法律、経済、作文、簿記、心理の10科目である。そのうち、歴史の成績が最高で94点、続いては佛語81点、英訳、経済と簿記はいずれも78点であった。クラス56名のうち、張公権は6番目であった。

また、1908年度「本科試験成績表」(1909年3月)によれば、政治科1年で開設された科目は、刑法、経済史、英国憲法史、政治学、独・佛語(選択科目と思われる、筆者)、作文、民法、貨幣論、憲法、純正経済学の10科目である。しかし、この成績表に記載されている張公権の成績は経済史と英国憲法史の2科目のみで、いずれも95点であった。生活困窮でかつ授業料の納付に追われているため、期末試験の受験を断念したものと考えられる。その結果、張公権は中国に帰らざるを得なくなった。

張公権にとっては、不本意の留学経験になったが、彼は福澤諭吉先生が唱えた「独立自尊」を生涯座右の銘としていた。張公権が履修した貨幣論と純正経済学の担当者は、名物教授、堀江帰一と福田徳三であった。とりわけ堀江帰一は張公権に大きな影響を及ぼした。この点については後述する。

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