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【義塾を訪れた外国人】
張公権:義塾を訪れた外国人

2018/08/09

政界から金融界へ

1909年帰国後、張公権は『国民公報』の編集を経て、清朝政府郵電部に入り、『交通官報』の編集に携わることになった。11年辛亥革命勃発後、張公権は上海に移り、友人とともに国民協進会という政治団体を結成した。12年浙江都督・朱瑞の秘書になり、翌13年に北京に戻り、参議院秘書長に就任した。張公権が政界に身を投じたように思われるが、13年12月に転機が訪れる。中国銀行上海支店副経理に就任したのである。慶應義塾で学んだ近代的な金融の知識がいよいよそこで活かされるようになる。

1916年北京政府が中国銀行上海支店に対して兌換停止令を送ったが、張公権は銀行としての信用を守るため、これを拒否した。17年に『銀行週報』を創刊し、近代的金融知識の普及に努めた。『銀行週報』は50年まで刊行され、中国で最も権威のある雑誌の1つであった。

堀江帰一を北京に招待

1917年7月に段祺瑞(だんきずい)内閣が成立し、梁啓超(りょうけいちょう)が財政総長に任命された。周知の通り、梁啓超は戊戌変法の失敗によって、日本に亡命している。来日後、梁は中国人を近代的な国民に変える必要があると痛感し、1902年1月に『新民叢報』と題する雑誌を発行した。梁啓超は福澤諭吉のことを非常に尊敬しており、『新民叢報』で福澤の写真と文章などを掲載し、自身の論説の中でも福澤と慶應義塾にしばしば言及した。当時、張君勱が『新民叢報』によく寄稿したため、兄弟とも梁と親しく接していた。そのような背景から、梁啓超が財政総長に就任すると、張公権を中国銀行副総裁に任命した。

張公権が中国銀行副総裁に就任すると、梁啓超に中国銀行の改革を進言し、慶應義塾で師事した堀江帰一を北京に招聘するよう提案した。

1917年10月8日に梁啓超の主導下で財政金融学会が北京で結成され、張君勱が幹事長に選ばれた。堀江は10月10日に北京に到着し、12月24日まで北京に滞在した。その間、財政金融学会で22回にわたって講演を行い、各国銀行貨幣の実際状況および貨幣の基本原則など近代的金融知識を伝授した。当時、中国銀行、交通銀行および外国の銀行がそれぞれ紙幣を発行していた。そのほかに、中国各地で銀貨も流通していた。それに対して、堀江は貨幣発行の統一を行うべきだと主張した。当時中国は金為替本位制をとっていたが、堀江は金本位制を採用するべきだと唱えた。

堀江の提言を受け、1917年11月22日に大統領勅令として「修正中国銀行則例」が公布された。中国銀行の1000万元の株式が政府、民間の別なく購入が認められ、株主総会の発足も認められた。18年2月17日に中国銀行株主総会が北京で開催され、銀行の理事は株主の投票によって選出され、北京政府が理事から総裁、副総裁を任命することになった。トップ人事の選出は政府から完全に独立したわけではないが、従来に比べると一歩前進である。その意味では、堀江帰一が中国銀行の人事の制度化に大きな役割を果たしたといえる。

駐日大使を固辞

1928年10月、中国銀行が南京国民政府によって改組、本部も北京から上海に移され、張公権は総裁に任命された。その背景には、北伐を行う蔣介石に対する張の財政的支援があった。しかし、35年3月に蔣介石、孔祥熙らが中国銀行に対するコントロールを強化するため、張公権を中華民国中央銀行副総裁に任命した。同年12月、蔣介石は張公権を駐日大使に起用しようとしたが、張は外交専門ではないことを理由に固辞、その結果、張は国民政府鉄道部長に就任し、38年に交通部長に就き、粤漢(えつかん)線、浙贛(せっかん)線など新しい鉄道建設を推進した。42年12月、張は交通部長を辞任し、43年9月にアメリカ視察に出かけ、日中戦争終結までアメリカに滞在した。43年に著書China’s struggle for railroad developmentがニューヨークの出版社から刊行された。

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