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【義塾を訪れた外国人】
ヘルムート・シュミット:義塾を訪れた外国人

2018/03/03

西ドイツ首相として

首相時代の業績には、大きく分けて3つの領域がある。

第1は、冷戦の中、東西両陣営が参加するヘルシンキ合意(宣言)を75年に達成し、全欧安全保障協力会議を創設した。これにより、やがて来る静かなる東欧革命や、劇的なベルリンの壁の撤去と東西ドイツの統一、20世紀史に特筆すべきソ連邦の崩壊などを準備することになる。

第2には、盟友であるフランスのジスカール・デスタン大統領と共に、欧州理事会を設立(74年)するとともに、今日に続く「サミット」(先進国首脳会議)を創設し、第1回サミットをフランスのランブイエ城で開催(75年)した。また、欧州の統合に欠かせない通貨統合(ユーロ)への道を準備した。こうした政策は、ボン・パリ枢軸と呼ばれ、後の欧州連合(EU)設立への礎となった。

第3には、長年西ドイツを苦しめたテロリスト集団ベーダー・マインホフ(ドイツ赤軍派)に対して毅然と立ち向かい、ルフトハンザ機乗っ取りに際しては、特殊部隊を躊躇なく投入してこれを殲滅した。

こうした中、歴史の大きな変動を予感しながら、1982年、連立内閣の崩壊によって、8年間のシュミット政権は終わりを迎え、宿敵キリスト教民主同盟(CDU)のヘルムート・コール氏に政権の座を譲ることになる。

翌83年には、シュミット氏は、高級紙『ディ・ツァイト』の共同編集者・発行人となり、言論文化活動に専心する。そして政権を離れてより9年後の1991年3月に慶應義塾大学の名誉博士号を受けることとなった。

名誉博士号の記念講演で何を語ったか

「日独両国の新しい役割を」と題された名誉博士号授与記念講演は、超満員の三田演説館で行われた。

シュミット氏は、まず、敗戦の焼け跡から、30年余の間に、日独両国は、復興とそれに続く高度成長により債務国から債権国へと転じ、国際的影響力も増大したと述べ、このことが他の国々に、両国への警戒感と嫌悪感を増大させたとしても不思議ではないとし、「日独の政治的エリートは、急変する世界情勢のなかで自らの果たすべき役割を定義できないでいる」と両国に共通する歴史問題への対応と、隣国との持続的友好関係の確立が重要であると、指摘した。そこから、歴史から学んだ新しい役割を定義し直すことを提案した。しかも、両国の取り組むべき課題は、歴史問題に限られるわけではなく、むしろ、前向きに取り組んでいかねばならない共通の最重要課題が山積していることを忘れてはならず、それらの課題は次の通りである、とした。

第1に、持てる者と持たざる者とのギャップ、すなわち格差の拡大。第2に、資源の有限性と持続可能性。第3に、温暖化をはじめとする地球環境問題。第4に、グローバルな感染症の脅威への対応。第5に、地球規模の人口の増大。

このような21世紀の課題に今(1991年現在)、取り組むには、第1に、「われわれ一人一人が寛容さと配慮と愛を持たねばならない」。しかし、それには、第2に、「経済的、金融的、科学的理性」を伴うものでなければならないのであり、理性は道徳と同じほど必要である、とする。

更に、「人間の連帯感という美徳と、全世界的な責任という良心のはたらきが、これからますます重要になってくる」と言って演説を結んでいる。

政権を離れて既に10年近くになり、年齢も73歳となっており、冷戦の終焉も、東西両ドイツの統合も、更にはEUの全欧的な拡大も、全て政権を去ってからの出来事であった。しかし、これらの1つ1つに深く関わり、長期的なビジョンによってそれらの実現への準備を行ったのは、他ならぬこの人の業績であった。

石川忠雄塾長とシュミット氏(1991年3月)
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