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【義塾を訪れた外国人】
エドウィン・O・ライシャワー:義塾を訪れた外国人

2017/01/01

駐日大使として

日本はアメリカのアジア政策の要であり、さらに1960年の安保改定をめぐる安保騒動の苦い経験、繊維問題をめぐる経済摩擦など日米関係が複雑な問題を抱えるなか、駐日大使に誰を据えるかは、発足したばかりのケネディ政権の外交のひとつのポイントであった。

就任まで紆余曲折があったが、着任した新大使の評判は上々だった。ライシャワーは通常の大使の仕事―情報の収集と分析、交渉、各界の人々との交流以外に重視したのは、日本各地における講演であった。特に若い層、大学生相手の講演は喜んで引き受けた。慶應においても1961年11月には日吉で「近代日本の民主化」を、64年1月10日福澤先生誕生記念会では「福澤諭吉とその時代」を教室にあふれんばかりの塾生を相手に熱弁を振るわれた。その際アポロの月面着陸の同時通訳で有名になった西山千さんが通訳として同行するのが常であった。学生相手の講演ではかならず質問の時間を設けそれに答える方式をとった。学生の質問が的を射ないものであっても「大変いい質問ですね」とすり替えて明確に答え、たちまち聴衆をライシャワーファンにしてしまうのだった。大使の立場として答えにくい微妙な問題は、「これからは学者として申し上げます」と教授の立場を上手く利用する方法を用いた。

1961年、日吉の講演に集まったたくさんの塾生

慶應義塾大学から名誉博士号を授与

5年に及ぶ駐日大使の任務を終えてハーヴァード大学に戻ったライシャワー教授に対し、慶應から名誉博士号が授与されたのは1967年9月のことであった。名誉学位授与の理由は、東洋学に対する学問的業績、特に1960年にフェアバンク、クレイグ両教授との共著『東アジア―近代の変革』のなかで、近代日本の進歩の過程で福澤諭吉と慶應義塾の果たした役割を高く評価されていること、前後数回に亘り三田、日吉で塾生に対し講演を行い、慶應義塾に親愛の情を示されたことなどであった。多忙なライシャワー教授の代理として出席し見事な日本語で挨拶したのは、ライシャワー大使時代一等書記官として勤務しその後昇格したオズボーン公使であった。

ライシャワー教授とは個人的にもご縁があった。日本外交史を専攻した研究者として、戦後アメリカの対日政策に果たした駐日大使の役割に関心を持ち『駐日アメリカ大使』(文春新書)を刊行した際、原稿の一部を来日中のライシャワー教授にお目通しを願ったり、バーモントのご自宅を訪問して当時の思い出話をうかがったりする機会もあった。

ある時、「世界は緊張緩和に向かっているか」の座談会でご一緒した。会が終わり、トイレで並んだライシャワー教授は用をたしながら言った。「イケイサン、これが本当の緊張緩和」。あの時のにこっとした笑顔は忘れられない。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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