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【義塾を訪れた外国人】
エドウィン・O・ライシャワー:義塾を訪れた外国人

2017/01/01

博士論文の作成と兄ロバートの死

やがてライシャワーは博士論文の完成に全力を注ぐことになる。西暦838年から847年にかけて中国に留学した円仁の膨大な日記『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』の翻訳に取り組んだ。正統文語体と写し間違いのある草書体の写本を天台宗の僧侶の力を借りながら読み進んでいった。日本人研究者もほとんど手を付けたことのない研究であった。後に慈覚大師の称号を得る円仁が揚州を経て唐の都長安に入り、この間、仏教徒迫害に巻き込まれたりしながら、当時の中国の政情や人情風俗をこと細かに記録したもので、異国人として中国人の古い生活を伝えた最初の文献であった。その翻訳と解釈はその後約20年の歳月をかけて、1955年に著書となって世に出た。

やがてライシャワー夫妻は住まいを京都に移し、京都大学で特別研究生として学ぶと同時に、東京では味わうことのできない古都の雰囲気を楽しむ生活を送った。夢のような京都の生活だったが、突然の悲劇がライシャワーを襲った。プリンストン大学講師であった兄のロバートが上海で急死したのだ。1937年7月、盧溝橋事件を発端とする日中戦争は拡大し戦火は上海にも広がった。中国空軍が黄埔江に停泊中の日本軍艦を爆撃した。目標を捉えきれなかった爆弾は道路に落ちてさく裂、ホテルの窓ガラスの破片がロバートの足のかかとをえぐった。すぐ病院に運ばれたが出血多量で遂に蘇生することはなかった。2カ月前に30歳の誕生日を迎えたばかりの優秀な現代日本研究者が戦争の犠牲になったのだった。兄ロバートはどちらかといえば現代の日本に、弟のエドウィンは古い日本や中国に関心があった。兄の死によって本来ならロバートがやる仕事をライシャワーがやることになる。

戦争とライシャワー

最愛の兄を失ったライシャワーはハーヴァード大学へと戻った。ハーヴァードでは講師として日本語を教えたが、日米関係が悪化してくると、大学で教える仕事に加え、東アジア情勢について話して欲しいと学内外から注文が相次いだ。さらに海軍で日本語要員を養成するプロジェクトが発足、海軍日本語学校設立に参加するなど多忙な日々が続いた。さらに、陸軍通信隊の依頼でワシントンにいき、翻訳者と日本軍の暗号を解読する新しい学校の面倒を見た。

日本の降伏とともに、情報の仕事はなくなり、国務省において戦後の日本と朝鮮半島に対する政策の立案に加わる。ハーヴァードに戻ったが、対日政策、対日平和条約に関する諸問題の顧問として国務省から呼び出されることも多くなった。こうして古代史からスタートしたライシャワーの日本への関心は、次第に近現代史、さらには日本の現状へと広がり、国務省とのつながりもできた。それは著書へも反映した。『日本─過去と現在』、『アメリカ合衆国と日本』など専門書以外に入門書、啓蒙書をつぎつぎと著していった。こうした学者、研究者並びに国務省における実務家としての経験はライシャワーを単なる象牙の塔の大学人以上の人物にしていった。

それに加え、画期的だったのは、アドリエン夫人を長い闘病生活の末失ったあと、松方ハルさんと結婚したことだった。ハルさんは明治の元勲松方正義の孫として生まれ、アメリカンスクールを卒業、アメリカの大学を卒業し、東京でアメリカの新聞の特派員助手として働いていた国際感覚豊かな才媛であった。

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