【三田評論と昭和100年】
青臭き、三田評論
2025/06/05
三田評論という雑誌は青臭いもの、青臭くなければ三田評論ではないのではないか。
明治31年3月に創刊された当初、『三田評論』は『慶應義塾学報』という名前であった。名前が変わったのは大正4年1月のことである。これが1つの節目であった、とよく書かれている。つまり「学報」時代は学校の広報誌的な性格が強く、改名によって学術的、あるいはジャーナリスティックな論文や評論の性格を持っていく、という見方である。
なるほど、タイトルが内容を表すとすれば、明瞭な把握である。しかし、果たしてそうだろうか。創刊号の「慶應義塾学報発行の趣旨」にはこうある。義塾教育の精神は「西洋文明の主義を始終一貫して一身の独立を全うして社会公共の事に及ぼし、以て国の文明進歩を実にするの一事」に外ならず、現状に決して満足するところではない。ますます文明教育の普及を期して義塾の制度を刷新しつつあるのもそのためである。そしてこの主義を拡張普及するのは単に「教場の教育」だけではない。慶應義塾を卒業して塾員に列する者は、誰もが「文明教育先導主唱者を以て自から任じ」、大いにこの主義を唱え行動し、ますます普及を図らねばならない。この雑誌を発刊するのもそのためである──。
慶應義塾に学んだ者は「文明教育先導主唱者」であり続けなければならない。そしてその主義をますます社会に普及するために本誌を発行するというのである。創刊の趣旨は大上段から書くものであろうが、しかし大した理想である。「学事の景況、塾員の消息移動等」の内輪の話は、あくまで付属的なものと位置づけられている。
とはいえ創刊号には学事の記事や寄附者の名簿、さらには塾員名簿が多くのページを取って収録されており、義塾と塾員を結ぶための広報誌の色彩がかなり色濃いのは事実である。
しかしその後、この色彩のバランスは絶妙に調整され続けていく。福澤諭吉逝去直後の号(明治34年3月)をみると、目次を一見するだけではほとんど義塾色が見当たらない。唯一口絵に「福澤先生永眠の地」の写真があり、末尾に「塾報」のコーナー名が見えているだけだ。
この号の論説の中に社会学者田中一貞の「ハートの教育」という一文がある。どのハートのことかと思えば、間違いなくハート(Heart)のことである。これを読むと、福澤の死に際して「冷酷なる教育界にありてハートの教育を絶叫するは実に目下の急務ならざらんや」として次のように説かれている。
人誰かハートなからん。唯燃ゆるものと未だ燃えざるものとあるのみ。然らば之を燃やすの法は如何。水は以て火を燃やすべからず、熱は熱を以て熱せざるべからず。火は火を以て燃さゞるべからず、人は人を以て造らざるべからず、ハートはハートに依りて振起せしめざるべからず。
ハートなき教育には感化はなく、規律、命令、処分等の語が跋扈する。その成果は無気力、不活発なる卒業生を生む。しかもその種の教育者は「よく忠を説き孝を教え、愛国を唱え、尊王を叫び、猶あきたらずして勅語を繰返えし、虎の威を借りて狐の醜を覆わんとす」。この現状で教育界に「春立ち帰えらしむるは、実に少数なるハートの教育者の責務なり」。義塾のなすべきことここにあり、と田中は訴えるのである。とてもまぶしい。屈託ない明るさと純情に満ちている。慶應義塾の、三田評論の根底にある独特は、この点──義塾の理想を確認し、それが日本、ひいては世界も変えるという無邪気な青臭さ──ではないだろうか。
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『三田評論』という名称は大正4年に発明されたわけではなく、かつて塾生たちが作っていた雑誌の名称であった。一度引退した三田評論という看板を、『慶應義塾学報』に代わる表題として引っ張り出した時の編集長は、板倉卓造である。国際法の専門家として知られ、法学部長も務めた。戦後は吉田茂のブレーンとも目された人物である。大変おっかない先生として卒業生に記憶されており、今でも長老塾員の口から名前が出ることがある。大学の教壇に立つ一方で、福澤が創刊した日刊新聞『時事新報』の社説記者を務め、時事を鋭く論評した。そしてしばしばその筆鋒そのままに、本誌でも時事を、あるいは慶應義塾の何たるかを記した。この板倉のスピリットは三田評論史上に是非とも記憶されねばならない。
板倉は、塾生が創刊した旧『三田評論』の最初の編集委員の1人であった。時は明治32年2月、『慶應義塾学報』創刊の翌年で、義塾当局も教職員も塾生も、義塾かくあるべし、日本、世界かくあるべしと、論じ合う活気に満ちていた時期である。そのもう1つの『三田評論』が掲げた創刊趣旨「三田評論生れたり」には次のようにある。
思うに今の世、弊源の除くべきもの、革新の要すべきもの、豈唯に我塾のみならんや。政治、宗教、道徳、文学、其他百般社会、是れ皆思想的大革命を経ざるべからざるものなり。昔マーセユの楽譜、一度仏の内方に響くや、全仏挙(こぞ)って革命の民となれりと。今や三田評論此の高台に呱々の声を挙ぐ、知らず何れの日ぞ、塾生挙って社会革新の児となる。乞う之を他日の三田評論に徴せよ。
この学生版の旧『三田評論』は、まったく遠慮のない筆を学校や教員にも向け、塾当局から咎められることもしばしばだったらしい。実際、創刊号から教員の補充や更迭を求める決議などを掲載しており、絵に描いたように血気盛んである。
板倉は在学中より本誌にも登場しており、大学に残って最初の登場は、卒業直後の明治36年10月に載った「慶應義塾の寄宿舎」と題する一文である。
偏狭固陋の教育主義が横行する今の世に、若し私立学校存立の必要がありとすれば、そはこの偏狭固陋の教育主義に対して叛旗を翻へすものでなくてはならぬ。是れ即ち私立学校の天職で、またその主たる存立条件である。慶應義塾が50年来、『独立自尊』を標榜して、新教育主義を鼓吹しつゝある所以のものは、即ちこの天職を全うせんが為めである。
実に青臭いではないか。堅物と思われがちな板倉だが、この滾る反骨精神が生涯脈打っていたのだ。そして表題とともに、学生版『三田評論』の熱きDNAも引き継がれているのである。
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大正期にはオピニオン誌の性格を強めた本誌は、昭和に入ると、むしろ「塾の関係者に対するインフォメィションをよくすることを主眼とした」と、編集を担当した昆野和七は書いている(600号、昭和36年12月)。震災復興で財政も厳しい中での日吉キャンパス開校、校舎再編という大事業もあって、塾長はくまなく全国の三田会を廻り、その様子が丁寧に報じられ、義塾社中の結束に傾注されたのである。同時に若手教員に発表の場を提供することにも力が入れられたのはこの時期であった。社会評論という色彩はやや薄くなるが、慶應義塾史編纂の観点からは、三田評論から多くの情報が取れる時代でもある。
そして戦争と財政難の影響により、昭和18年12月から約8年にわたる空白期間をおいて、昭和26年10月、三田評論は復活した。
復刊3号目(552号、昭和27年2月)の国文学者池田弥三郎の「受験生殺到への疑問」という記事が面白い。この記事は、弥三郎サンが小学校時代に普通部入学の希望を担任に止められて東京市立一中(後の九段高校)に進路を変えさせられ、一中でも慶應行きを妨げられかけて、今度は「官立は嫌です」と言い放って慶應に入ってきたことを振り返り、「小学校の教師の、見栄の犠牲になって官立に進まされた僕は、漸く始めからの志望通りの学校に帰って来た」と記して、次のように続けている。
「なんだ、馬鹿な、慶應なんか」と、小学校の教師にまで馬鹿にされていた慶應が、今日、中等部や普通部が、都内で最高の競争率を示すのを見るにつけ、僕は寧ろ、腹立たしいものを覚える。慶應は、その教育の根本方針を、ちっとも変えてはいないのだ。世の中が、勝手にあっちに傾いたり、こっちに振れたりしているだけの事だ。……明治以来、如何にして官立万能主義が芽生え、成長し、そしてそれが官尊民卑の思想とうらはらに、いかに過去の日本に害悪を流し、いかなる不幸を国民にもたらしたか……僕の様に、中学生時代を官立ですごし、大学を私立で、殊に塾の様な所で過したものには、身に沁みて私立の、殊に塾の良さが訳わかるのだ。競争が烈しくなればなる程、天下の秀才が塾に集って来るだろう。だがそれを手放しで悦ぶ気には僕はなれないのである。それが、私学に対する正しい認識から来る人気でない限りは。
教育という事業は、花々しさはなく、すぐに結果が出るものでもない。決して終わりもない。しかし若さ溢れる未来の担い手とともに、明るい無限の可能性を描き続ける仕事である。慶應義塾の「社中」という思想は、この学校に関係する者は、生涯その未来の担い手に関わり続けて、一緒に育て、自らも成長して社会を変えていこうという、無邪気で明るい外向きの思想であり、だからこそ青臭い理想と反骨の言葉を、生涯語り続けられるのではないか。
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連綿たる青臭き三田評論の言葉の蓄積に、1つ補遺を加えよう。
慶應義塾を(戦災から)建て直すこと(は)……ひとり義塾のためばかりではない。日本を偽りなく民主化するためにはもとより、新日本の文教のためにも、それは一刻を争うことである。戦災と接収に施設の4分の3を失っておる慶應義塾を速やかに元の姿へ返すことは、ひいては世界の平和、人類の文明のためと申しても差し支えない。
この文章は、戦後の復興期の義塾を担った塾長潮田江次により昭和22年に草された、慶應義塾創立90年祭開催の趣意書の一節である。当然本誌に載るべきものであったが、残念ながら戦後の休刊期に当たり、"青いラインナップ"から漏れているのがいかにも惜しい。慶應義塾あっての世界の平和である、人類の文明である。この屈託なき、すがすがしさ。私はこの青き思想を堂々とたびたび語ることが三田評論の価値であると思うのだ。
三田評論よ、青くあれ、義塾社中よ、文明教育先導主唱者をもって自ら任じ、大いにこの主義を唱道して、普及し続けようではないか! 照れ笑いを抑えてこう叫び、稿を閉じたい。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
2025年6月号
【三田評論と昭和100年】
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都倉 武之 (とくら たけゆき)
慶應義塾福澤研究センター教授