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【時の話題:日本の「祭り」を考える】
笠井 賢紀:祭りをめぐるパブリック・ヒストリー

2025/10/20

  • 笠井 賢紀(かさい よしのり)

    慶應義塾大学法学部准教授、エディンバラ大学社会政治学部客員研究員

「祭り」とは何か

私たちが「祭り」という言葉を見聞きしたときに想像するものには大きな幅がある。「まつり」の2字を重ねる祭祀や奉祭、つまり神仏や先祖への信仰や祈願のための儀式的性格を有するものを想定することも多い。これらは伝統という言葉と共に語られる。

だが、夏祭りのような地域行事は、信仰・儀式の性格が前面に出ているわけでもなく、必ずしも長い歴史をもっているわけでもないが、私たちの考える祭りの一種である。音楽フェスやコミケ(コミックマーケット)もまた、祭り(祭典)と称されても筆者には何ら違和感が生じない。他方、「まつりごと」たる政治は現代日本においては祭りではないだろう。

つまり、祭りは必ずしも伝統や儀式的なものに留まらず、人が集まって同じ対象を楽しんだり祈ったりする行事のことを一般的には指すようだ。

対象化される「祭り」

20世紀後半には既に、伝統行事の衰退は「コミュニティの崩壊」言説と共に常に問題視されてきた。

伝統行事が見直されるのは、近代化の基本的な特質であるという見方もできる。たとえば、社会学においては「再帰的近代」という術語が用いられることがある。論者により主張は異なるが、代表的なものとしてギデンズの立場に立てば、伝統は私たちに規範を示す社会外部ではなく、それ自体が議論の対象と変化したといえるだろう。

つまり、これまでは伝統(に従うこと)が正当性を担保していたのに対し、再帰的近代においては、なぜその伝統が正当性を担保しうるか、あるいは何らかの正当性を担保するためには伝統はどのように変化しなければならないのかという問いかけが生じる。

しかし、現実には伝統のもつ規範性は強く、かつ、変化をもたらすには責任や時間が伴うので、すべての伝統が矢面に立って見直されてきたわけではない。その点、コロナ禍の影響は大きかった。コロナ禍は、人が集まり物理的距離が接近するあらゆる社交を例外なく議論の俎上へと引き上げたからである。伝統行事でさえ聖域化されなかったのであるから、先に見たすべての種類の祭りは「どうあるべきか」という議論に例外なくさらされることになった。

議論の対象となることさえ決まれば、その論点は物理的距離に留まらない。重要なのは聖域化が解除されたことであり、予算、人権、ジェンダー、動物愛護などあらゆる話題が争点化したのは当然のことであろう。

レパートリーとしての祭り

ところで、祭りの一つひとつは固有の方法や祈りを持つが、それらがすべて独自に発生したわけではない。私たちは、祭りを論じるときに、固有の祭りの内的な歴史に議論が偏る傾向がある。しかし、祭りは横に伝播していく性質も持っている。

宮中行事が民間行事へと転換していく事例はよく知られるが、そうでなくても、他の事例で良いと思われる方法があるのであれば取り入れるのは当然であろう。筆者の研究では「左義長(さぎちょう)(どんど)」も広く伝播した事例であるし、祭りではないが「伊勢講」では伝播のための大きな役割を果たした御師(おし)の存在も興味深い。音楽フェスなどの現代的な事例においても、相互に良い方法を採用しあって「音楽フェスらしさ」を総体的に作り上げている。

このように、他の事例と相互参照しつつ、模倣したり修正したりという、民俗のもつ性格を捉えて、筆者は「共生社会のレパートリー」と呼んでいる。祭りもまた、多くの人が個別の価値観の違いを超えて集まれる場を作るレパートリーとして機能している。その中には、「山車」や「花火」や「縁日」など、なじみ深いモジュールも含まれる。

パブリック・ヒストリー

伝統的であれ現代的であれ、祭りの正当性が議論の対象となること自体はもはや止められない。議論されるのであるから、変化や中止になることも当然にありうる。その際、何を守るべきかという議論の立て方は当然にありうるし、専門家が何らかの立場から意見を唱えることも重要には違いない。

ただ、筆者としては専門家だけでなく、まさにその祭りに関わっている当事者(地域住民、愛好家、…)たちにとって、祭りが持つ意味を常に問いたい。そもそも祭りは個別の価値観を超える性格を有するから、当事者がどう祭りを位置づけるかもさまざまである。

筆者は今年、『パブリック・ヒストリーの実践─オルタナティブで多声的な歴史を紡ぐ』(慶應義塾大学出版会、2025年)という本を編んだ。祭りの文脈においては、専門家の批評や論述に留まらず、「現に社会にとっては何だったのか」の多声性ある語りに耳を傾け、歴史を描くことが肝要である。

祭りそのものがなくなることの問題もありうるが、その祭りが果たしてきた役割・機能が歴史からなかったことにされることは社会の損失である。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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