【時の話題:日本の「祭り」を考える】
谷部 真吾:祭りはいかに変化を受け入れてきたか
2025/10/20

祭りは伝統文化か?
祭りとは、日本の伝統文化であり、大昔から世代を超えて連綿と受け継がれてきたものと、一般には考えられているのではないだろうか。だが、実際には、これまで変化を経験したことのない祭りなど、存在しないといっても過言ではない。例えば、「東京の祭り」と聞くと、多くの人は神輿を想起するのではなかろうか。確かに、現在、浅草の三社祭や神田の神田祭に出かけると、数多くの神輿を目にすることができる。そうした神輿は大きく2つにわけられ、1つは神社が管理する宮神輿であり、もう1つは氏子町内が所有する町神輿である。これらのうち、祭りで見かける神輿のほとんどは、氏子町内から担ぎ出される町神輿である。だが、東京の祭りにおいて町神輿が出されるようになったのは、そう古いことではなく、明治40年代(1900年代後半)以降であるとされている。
神輿以前の江戸・東京の祭り
では、それ以前の東京、さらには江戸の氏子たちは、どうしていたのであろうか。人々は山車(だし)と、附祭(つけまつり)と呼ばれる仮装行列やさまざまな造物(つくりもの)を出していた。斎藤月岑(げっしん)によって1838(天保9)年に刊行された『東都歳時記』によると、江戸時代の三社祭は隔年で3月17日・18日に行われており、18日には31町内より山車と附祭が出されたという──但し、『東都歳時記』に列挙されている山車を出した町内を数えてみると、31ではなく、30ではないかと思われる。また、江戸最大の祭りとされた赤坂にある日枝神社の山王祭と神田明神の神田祭では、前者で最大56台、後者で最大40台の山車が出た。これら2つの祭りは、天下祭とも呼ばれ、将軍の上覧を受けた。
他方、山王祭・神田祭における附祭は、順番やくじによって担当が決められ、当年に担当となった町内は、朝鮮通信使の仮装行列を出したり、源頼光らが退治した酒吞童子の首の造物や、1728(享保13)年に日本にやってきた象の造物を出したりした。こうした華やかな附祭は、江戸の人々の注目を集めたようである。だが、華やかであったからこそ、享保・寛政の改革の際には、数や規模が制限された。そうした寛政の改革期に実施されたと思われる、1791(寛政3)年の神田祭の様子として、『武江年表』の同年9月15日の条に次のような記述が見られる。
九月十五日、神田御祭礼、だしの外は太(だい)神楽、狛(こま)廻し、子供角力のみなり。此の時落書、「御祭は目出たいひれの御吸物 出し計(ばかり)にてみどころはなし」。
旧暦九月十五日は神田祭当日である。この年の祭りでは、改革の影響により附祭が規制され、見るべきものがなかったのであろう。そんな祭りは面白くない、という江戸っ子の心情がよく伝わってくる。
祭りの意義
やがて近代に入ると、祭りのありようは大きく変容する。まず、附祭がなくなり──神田祭において附祭が最後に出されたのは、1887(明治20)年とのことである──、山車も上述したように徐々に町神輿に置き換わっていった。山車が曳き回されなくなった理由について、一般には、東京の街中に電線が張りめぐらされたからだといわれるが、それは決定的な要因ではなく、むしろ財政的な問題の方が大きかったのではないかという指摘もある。いずれにせよ、明治末期以降、東京の祭りでは神輿が主役となった。それにより、祭りは衰退したのかといえば、そのようなことはない。人々は、あいかわらず、祭りを楽しんでいる。
祭りとは、歴史を重んじ、先代から受け継いだものを次世代に伝えることが、すべてではない。社会環境の変動により、それまでのありようを変えなければならないことも、まま起こりうる。そのようなとき、これまでの作法に固執し、祭りの実施を危うくするよりも、時代の要請にあわせて柔軟に対処した方がよいのではないだろうか。山車を曳く、神輿を担ぐといった祭りでの行為は、決して1人で行えない。その意味からすると、祭りとは、人々の協働の上に成り立つ、すぐれて社会的な現象なのである。祭りを変化させ、その存続を図ることは、人と人とのつながりを維持していくことでもあるといえよう。
参考文献
岸川雅範『江戸の祭礼』角川選書、2020
木下直之「神田祭の近代」木下直之(他編)『鬼がゆく』平凡社、2009、76-77頁
斎藤月岑(著)、金子光晴(校訂)『増訂武江年表 二』 平凡社東洋文庫、1968
同、朝倉晴彦(校注)『東都歳時記 一』平凡社東洋文庫、1970
滝口正哉『江戸の祭礼と寺社文化』同成社、2018
福原敏男『江戸最盛期の神田祭絵巻』渡辺出版、2012
同『江戸の祭礼屋台と山車絵巻』渡辺出版、2015
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
2025年10月号
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谷部 真吾(やべ しんご)
山口大学人文学部教授、塾員