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【時の話題:コンプラ社会を問う】
田淵 俊彦:テレビメディアの過剰なコンプライアンスに警鐘を鳴らす

2024/09/02

  • 田淵 俊彦(たぶち としひこ)

    桜美林大学芸術文化学群ビジュアル・アーツ専修教授・塾員

テレビメディアは、他メディアに比べて受容者(視聴者)の数が桁違いであるため、コンプライアンス(以下、コンプラ)遵守の縛りが厳しい。例えば「視聴者に不快感を与える」「不適切な演出で視聴者を誤認させる」といったバッシングがSNSなどで拡散されると、レピュテーションリスク(風評被害による企業価値低下の危険性)は高まる。日本の民放テレビ局はすべて株式会社であるから、そういったことが原因で株価が暴落することを恐れるきらいがある。これらの事情が、いまテレビメディアがコンプラ問題にセンシティブになっている理由である。同時に、コンプラはテレビ局にとって責任転嫁ができる“便利なリミッター装置でもある。テレビ局はコンプラという大義名分に乗じて「自主規制」をかけ、メディアとしての義務を放棄している。本稿では、テレビにおけるコンプラの現状を明らかにし、コンプラ社会におけるテレビメディアの在り方について提言をおこなう。

「コンプラ過剰」を風刺したようなTBSのドラマ『不適切にもほどがある!』が話題となり、NPO法人放送批評懇談会が選定する第61回ギャラクシー賞のテレビ部門特別賞を受賞したのは、そういったテレビ局の体たらくを誰もが嘆き、メディアのいまの姿を揶揄していることの証とも言える。昭和と現代のコンプラのギャップをテーマにしたドラマ内では、「このドラマには不適切な台詞や喫煙シーンが含まれていますが、時代による言語表現や文化・風俗の変遷を描く本ドラマの特性に鑑み、86年当時の表現をあえて使用して放送します」といういわゆる「お断りテロップ」が示された。これは脚本家・宮藤官九郎氏によるコンプラに過敏になる風潮への風刺である。それは、最終話に近づくにつれ「お断りテロップ」が頻繁に登場するようになることからも読み取れる。まさしくテレビ局上層部から「あのシーンはまずくないか」「あの言葉はやめたほうがいい」などといった「自己規制」や「言葉狩り」がおこなわれ、制作現場に過剰なコンプラ遵守が強要されているという現実とその状況に抵抗する制作現場の意志を表している。

コンプラが過剰になると「表現の制限」を引き起こし、作り手の創造力をそぎ落としてしまう。そして結果的に視聴者に「本当の姿」が届かないことになり、「知る権利」を損なわせてしまう恐れがある。以下に実例を挙げたい。

テレビ局勤務時代に、私が吉村昭氏の小説『破獄』をドラマ化したときのことである。無期懲役囚・佐久間が脱獄をしないように厳重な手かせや足かせをされるというくだりがあった。あまりにも長い間その状態のまま投獄されていたので、鉄のかせが皮膚とこすれてかぶれ皮膚炎になり、さらにそれが放置されてうじ虫が湧いた。そんなリアルなシーンを具現化しようと、美術が本物のうじ虫を用意した。演じる山田孝之氏は嫌がることなく足にうじ虫を乗せられ、撮影は終了した。しかし、その映像に上層部からの物言いがついた。「うじ虫の部分は削除するべきではないか?」というものだった。理由は、視聴者に不快感や嫌悪感を与えるのではないかという極めてコンプラ的な「配慮」だった。私は断固として反対し、「これは佐久間が脱獄をするきっかけとなるエピソードであるから、過酷さを忠実に表現しないと意図が伝わらない」と上層部を説得した。結果的にうじ虫の映像はカットしなくてもすむことになったが、コンプラを理由に作り手の「表現の自由」や視聴者の「知る権利」が損なわれる危険性に直面し、空恐ろしくなった。

またあるドラマの犯人が車で逃走するシーンが「シートベルトをするべきかどうか」で議論になった。「逃げる犯人がいちいちシートベルトなんかするわけがない」「リアリティに欠ける」と私は判断したが、念のため私有地で撮影することにした。すると上層部からの指示で、「撮影は法令を遵守し、私有地でおこなわれました」という興ざめなテロップが入ることになった。

こういった場合にテレビ局の経営陣が下す判断の理由は、例外なく「念のため」である。しかし、こういった傾向を「幹部が言うから」「上からの命令だから」と鵜呑みにして安易に片づけるべきではない。作り手は「1人ひとりがテレビメディアを構成する一員である」ことを自覚し、責任を持つ必要がある。では、「責任を持つ」とはどういうことなのか。

それは、常に「これでよいのか」と自問自答してゆくことである。情報は受け手によって捉え方が違う。映像を見たときの感情も種々さまざまだ。うじ虫の映像は人によっては「たまらなく気持ち悪いもの」かもしれないが、制作現場にとっては「欠かせない」こだわりの表現であり、確固たる意図があるはずだ。それをコンプラという側面だけでカットしてしまうことは、視聴者の「リテラシー」や「想像力」を低下させるばかりでなく、現場の士気を下げ萎縮させることにつながる可能性があると指摘したい。

大切なのはコンプラとリテラシーのバランスとの線引きである。コンプラは守らなければならないが、過剰になりすぎてはならない。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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