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【時の話題:食料安全保障を考える】
渡井理佳子:安全保障をめぐる法と食料の確保

2022/10/14

  • 渡井 理佳子(わたい りかこ)

    慶應義塾大学大学院法務研究科教授

日本において、法律や判例が安全保障の定義を示したことはない。アメリカでは、1971年の連邦最高裁判所の判決において、ブラック判事が「安全保障とは、広範で曖昧な一般的な概念である」と意見を述べた例がある。

この裁判は、映画にもなった有名なペンタゴン・ペーパーズ事件である。これは、連邦政府が新聞社を相手取り、安全保障を理由に、国防総省が作成したベトナム戦争に関する秘密文書の公表の差止めを求めたという事案であった。

安全保障は、ペンタゴン・ペーパーズ事件のように、軍事的な文脈において語られるものであった。しかし、安全保障の概念は、次第にその範囲を拡げてきている。例えば、国際連合総会の補助機関である国際連合開発計画は、1994年版の「人間開発報告書」において、人間の安全保障の概念を打ち出した。

人間の安全保障の概念には、食料安全保障が含まれており、報告書はこれを、誰もがいつでも、物理的にも経済的にも、基本的な食料を入手できることと定義した。日本においても、1999年に制定された「食料・農業・農村基本法」の2条1項が、良質な食料が合理的な価格で安定的に供給されなければならないことを定めている。

従来、食料の安全を論じるとすれば、食品中の汚染物質の対策が中心であった。この意味での安全は、英語ではセイフティーの語があてられる。しかし、食料安全保障は、セイフティーではなく、セキュリティーの観点からの検討を促すものである。食料の安全は、質の安全にとどまらず、安全保障の問題になったということができる。

農林水産省によると、2021年度の日本の食料自給率は、カロリーベースでは38%、生産額ベースでは過去最低の63%に留まっていた。日本政府は、2030年までに、この数字をカロリーベースで45%、生産額ベースで75%に引き上げることを目標に掲げている。これを達成するためには、長期化の様相を呈しているウクライナ情勢もあり、食料のサプライチェーンをどのように強化していくかが鍵となるであろう。

サプライチェーンとは、原材料が製品となって消費者に届くまでの一連の供給網の連鎖のことをいう。経済のグローバル化に伴い、サプライチェーンの中には、日本とは社会経済体制を異にする国々も含まれるようになった。この事態は、サプライチェーン上のリスクではあるものの、同盟国以外をサプライチェーンから完全に遮断(デカップリング)することは、困難といわざるを得ない。そこで、国内の農業振興を含め、食料の安全をいかに図っていくかは、今日の重要な課題である。

日本は、2013年12月に初めて国家安全保障戦略を策定し、安全保障に関する外交政策と防衛政策の基本方針を定めた。最近では、日本の利益を経済面から確保するため、経済安全保障に関する政策の形成が進められている。今年末にも予定される国家安全保障戦略の改定においても、経済安全保障への言及がなされる見込みである。

安全保障の見地からの最近の法律としては、2021年6月に「重要施設周辺及び国境離島等における土地等の利用状況の調査及び利用の規制等に関する法律」(重要土地等調査法)が設けられ、続いて本年5月には「経済施策を一体的に講ずることによる安全保障の確保の推進に関する法律」(経済安全保障推進法)が成立した。しかし、いずれにおいても食料の問題が取り上げられることはなかった。

重要土地等調査法は、安全保障上重要な施設の周辺および国境近くの離島で指定を受けた区域について、利用状況を調査する等の規定を置いたものである。食料安全保障に関しては、農地や水源地の利用状況が問題となるが、現状ではカバーされていない。経済安全保障推進法は、サプライチェーンの強靱化のための施策を導入し、半導体や医薬品を対象物資と想定する一方で、食料については言及していない。

重要土地等調査法の附則では、施行後5年を経過した後に、そして経済安全保障推進法の附則では施行後3年を経過した後に施行状況を検討して、その結果に基づき、必要な措置を講ずることとなっている。食料は、国民生活に密接に関わることからすれば、食料自給率の改善だけではなく、法制度の面からも多角的に取り組んでいく必要があるものと思われる。日本における食料安全保障への対応は、これから本格化することになるであろう。

安全保障の問題は、パソコンに例えるならば、オペレーティングシステムともいうべき、重要な基盤ということができる。その基盤をしっかりとしたものにするためには、今後も官民のいっそうの連携を図り、社会全体として安全保障感(センス)および安全保障観(ビジョン)を共有していくことが肝要であるものと思われる。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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